北風と太陽

 米原万里さんのエッセイ「真昼の星空」(中公文庫)に、「北風と太陽」というのがあります。

 表題作は誰もが知っているイソップ物語の、「北風と太陽」。ある日、北風と太陽が、どっちのほうが偉いのかきめるために、旅人のコートをどちらが早くぬがす事ができるか競い合います。北風は精一杯凍てつくような冷たい嵐を吹き付け、コートを吹き飛ばそうとします。しかし、旅人はコートを脱ぎません。太陽は暖かい陽光を浴びせ、旅人をリラックスさせ、しまいに旅人はコートを脱ぎましたとさ、という説話。
 他人に何かをさせようとしたら、押し付けがましいのは功を奏さない。本人をその気にさせるのが肝要だ、という教訓が語られています。

 しかし、米原さん、(引用開始) 
 最近、時と場合によっては、太陽よりも北風のやり方のほうが、ましなのではないか、と思えてきた。北風の意志に逆らうことで、旅人は己の意志を明確に自覚した。ところが、太陽の意志については、旅人はそれを、あたかも自分自身の意志と錯覚して外套と帽子を脱いでいるからだ。
 崩壊する前のソ連の、当局による言論統制は、あからさまな北風型だった。これはダメ、あれはダメ。タブーは明確であり、それを破った場合の弾圧は熾烈であったから、当局の意志は、否が応でも認識させられる。
 当然、人々はテレビも新聞も信じていなかった。表面的な当たり障りのない言辞の裏に潜む真実を読み取る力を自然に身につけていた。見え見えの権力礼賛を繰り返す作家やジャーナリストでさえ、それを媚びへつらってやっているということを自覚せずにはいられなかった。そして、反体制派の知識人たちは、権力の意志に逆らう事で、自分の意志を繰り返し確認していた。
 さて、ソ連邦が崩壊し、一応民主主義と言論の自由を標榜する社会が出現すると、国民の意思を操作する方法は、太陽型になってきた。(中略)
 人々は、あたかも自らの自由な意思に基づいて、さして必要もない商品を次々と購入し、テレビのインタビューがあると、10人中9人が、あたかも自分の意見のように、テレビのキャスターや新聞の論調を反復する。そして、自分や自分とおなじ境遇の人々の利害に明らかに反する政策を推し進める政党にすすんで投票したりする。それが情報操作の結果であるなどと露ほども疑わない。(中略)
 魂の自由のためには、見せかけの自由よりは、自覚された束縛のほうがいいのかもしれない。(引用終了)
と、おっしゃっています。

 先人たちの、つかみとってきた、自由や平和を、わたしたちが浪費せず、未来につないでいきたいと思います。束縛されないところで、いかに自由や平和を大切に育めるか、それが先人たちが私たちに残してくれたメッセージだと思います。

 ちなみに、米原万里さんのエッセイはどれも示唆に富んで面白くおすすめです。なかでも、話題にもなった、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」と、「オリガ・モリソブナの反語法」の二つは、是非読んでみてください。
 
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by pantherH | 2005-11-02 01:19 | 趣味
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