専門家の仕事

 常々、専門家の仕事とは何だろうかということを、漠然と考えていました。特に、人と接する仕事に就く専門家の仕事とはなんだろうかと。非常に抽象的で主観的なのですが、わたしは、一つの結論に至りました。それは、「大丈夫です」ということばを引き受けることではないかということです。すなわち、専門家は究極的には楽観主義を与えることが、その役割なのではないか、ということです。なぜそう思うのか、論理立てて説明することは難しいのですが、具体例を挙げてみようと思います。

 例えば、学校の先生。授業をしようと思っても、クラスは騒々しくて授業にもなりません。注意をしたら逆切れされたり、登校拒否になるかもしれません。このような問題児は、精神科で専門の先生に診てもらって、薬を処方してもらい、出来ればうちのクラスから切り離して欲しいと思うかもしれません。子どもたちは、勉強についていけず、腕白にエネルギーを発散するところもなく、どうしていいか分からない心のモヤモヤをただ抱えているだけなのに。そこで、専門家である教師が、「大丈夫ですよ、この子はそんなに変わった子ではありません」ということばを引き受けたら、子どもたちはどれだけ心強いでしょうか。教師は、「大丈夫です」ということばを発するにあたり、子どもへの愛情はもとより、多くの人に協力を仰ぎ、子どもたちの一番近くで自らが右往左往しなければいけません。最近の家族環境を考えると、教師が「大丈夫です」ということばを発するには、相当の覚悟と気概を要します。それ故いっそう子どもたちは、「大丈夫です」と覚悟を引き受けてくれた教師に思慕の念を抱くのです。

 例えば、医者。心筋梗塞をおこし、集中治療室で治療を受けたことがある患者が退院します。退院時に主治医から、徐々に体を慣らして行くようにという指導と、再梗塞をおこす可能性についての説明を受けます。退院した患者は、徐々に体を動かそうと思っても、再発が怖くてなかなか出来ません。そこで、専門家である医者が、「大丈夫ですよ、再発を防ぐ為にこちらも最善を尽くしましょう」ということばを引き受けたら、患者の生活はもっと不安から解放されるでしょう。医者は、「大丈夫です」ということばを発するにあたり、インフォームド・コンセントはもとより、最大限の再発予防の努力と注意と誠意を注がなくてはいけません。昨今の状況を鑑みると、医者は安易に「大丈夫です」ということばは言えません。それ故いっそう患者は、「大丈夫です」と覚悟を引き受けてくれた医者に信頼を寄せるのです。

 例えば、経済学者。日本の財政赤字が1000兆円にも達することは周知の事実です。箱ものによる利益誘導型の政治をしていたから財政が破綻したのだ、官僚の天下り先として特殊法人を無数に作ったのが原因だ、等々原因を指摘したらいくらでもあるでしょう。このままでは日本が危ない、という見通しを語れば語るだけ、国民も不安と絶望感で希望すら持ち得なくなってしまいます。そこで、専門家である経済学者が、「大丈夫ですよ、増税をせずに財政再建するべく知恵を絞りましょう」ということばを引き受けたら、国民の生活は今より明るくなることでしょう。経済学者がこのことばを発するにあたり、アカウンタビリティーはもとより、緻密で正確な状況分析と、柔軟で豊富なアイディアを注がなくてはいけません。たしかに、昨今の状況をみると、経済学者は容易には「大丈夫です」とは言えません。それ故にいっそう国民は、「大丈夫です」と覚悟を引き受けてくれた学者に尊敬の念を抱くのです。

 例えば、政治家や官僚。北朝鮮は日本人を拉致し、核武装もしようとしています。中国が急速に国際的影響力を増し、人民解放軍も軍備拡大に余念がありません。来るべき危機に向けて、憲法を変えて日米同盟を強化する以外選択肢はないといいます。近隣諸国との関係悪化の不安を煽られ、国民は対米追随以外に選択肢はないのかと虚無感を募らせます。そこで、政治家や官僚が、「大丈夫です、緊張緩和と国益の為に外交努力を全力で尽くします」ということばを引き受けたら、国民の虚無感や劣等感は和らぐことでしょう。政治家や官僚がこのことばを発するにあたり、自らのビジョンを真摯に語ることはもとより、他者の主張にも傾聴し、信頼関係の構築に、柔軟かつ大胆に、そして忍耐強く取り組まなくてはいけません。今日の複雑な国際情勢を慮ると、「大丈夫です」とはなかなか言える状況にはないかもしれません。それ故にいっそう国民は、「大丈夫です」と覚悟を引き受けてくれた政治家や官僚についていくのです。

 一方、覚悟を引き受けずに、安易に「大丈夫ですよ」ということばを発することは、カルト的でさえあり、人々の疑心暗鬼を助長し、かえって信頼を損ねてしまいます。では、覚悟を引き受けるとはどういうことなのか。この点について考えると、「実践する」ということにほかならないことに気づかされます。実践するというアクションがあるから、「なんとかする」、そして、「なんとかなる」という希望が生まれるのです。

 ところで、専門家に全てを委ねて、「なんとかしろ」とのたまわっている私たち。すぐに専門家の見解を求め、自ら考えることを放棄し、ひとたび問題が起こると糾弾することにのみ躍起になる。この他人任せの態度が、「実践」の芽を摘み、更なる無責任体質を助長していることも事実です。子育てから、健康、国政にいたるまで、専門家に覚悟を要求するばかりではなく、私たちも当事者として右往左往しながら、関わり学習していかなくてはいけないのだと思います。

 昨今の、一億総無責任化している社会から、一歩ぬけだすためにはどうしたらいいのだろうかと考えると、やっぱり、「双方の実践」なんだよなーと改めて思ってしまいます。
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by pantherH | 2005-11-25 20:34 | 社会
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