左とか右とか

 TBセンターに関する話で、不偏不党ということばを使い、自分は左にシンパシーがあると言ってきたけれど,不偏不党っていったいなんなんだろうかと考えていました。当然のことながら,不偏不党ということばを考えると、右とか左とかというのは何なのかという問題につき当たります。はたして,右とか左っていったい何なのでしょうか?左も右も全く深く勉強したことのない、わたしが思うところの右と左について考えてみました。(左翼、右翼ということばはイデオロギーを含むような気がするので、あえて、使わずに考えたいと思います。)

 本来の右も左も、「人」に関心がある点で共通しているように思います。ただ、人に対する捉え方が双方で違うように思われます。では、どう違うのでしょうか。
 左の人は、その人がある「今」を重視します。一方、右の人は、その人にまつわる「歴史」を重視します。「今」にこだわる左の人は、庶民は歴史的に常に抑圧されてきたので、人がその抑圧から解放される為には、地縁や家父長制からの解放が必要だと考えました。経済的にも、庶民は絞られるだけ絞られてきたので、搾取する資本家からの解放が肝要だとも考えました。一方、「歴史」にこだわる右の人は、今ここにその人が存在するのは、過去の歴史や伝統があってこそであり、人は先祖や地縁を敬わなくてはいけないと考えました。
 古い伝統やしきたりを重視する「右」の人にとって、そこからの解放を唱える「左」の人々は脅威でしたし,「左」の人にとっては、伝統やしきたりに縛り付けようとする「右」の人は敵にしか思えませんでした。しかし、この時点では、左も右も「人」に対する関心と理解がその根幹をなしていたように思います。

 「左」の人は、「歴史」にこだわる「右」の人とは別に、「お金」にこだわる「資本家」にも目の敵にされました。なにせ、資本家による隷属からの解放を求めたのですから。「左」の人も「右」の人も、「人のあるべきあり方」に関心があったのですが、「お金」にこだわる人は、「人のある姿」に関心がありました。本質的に人間は人より裕福になりたいだろう、という姿にです。この点は、ある意味正鵠を得ていたとも思われます。

 幸か不幸か、卵が先か鶏が先か分かりませんが,イデオロギーがそれぞれの言い分を論理的に裏付けるようになりました。「左」にとっては、「共産主義」であり、「右」にとっては、「血」であり、「資本家」にとっては、「資本主義経済」だったのだろうと思います。イデオロギーが双方のこだわりの根幹をなすようになると、互いに修復不可能なほどに、いがみ合うようになりました。
 戦後、「左」vs 「右+資本」による東西冷戦対立となったのは周知のとおりです。

 資本主義経済の中心を驀進したアメリカ人は、元来が新大陸を求めてやって来た入植者たちだったので,昔からの、その土地にまつわる対立や融和や様々な多くの歴史について、あまり深く考えることをしませんでした。皮肉にも、そういった環境に立脚したアメリカの、自由で寛容で古くからの因習にとらわれないその姿に、だれもが憧れたのでした。

 しかし,共産主義憎さに、「お金」の人と手を組んでしまった「右」の人は、本来持っていたはずの「人」にこだわるその視点、つまり「人は歴史なしには存在し得ない」というメッセージを自ずと失い,「反共」「ナショナリズム」という、「対象となる他があってしか意味を有さない」ことばしか持ち得なくなってしまいました。
 一方,結果的に全体主義、官僚主義に成り下がって、ソ連の崩壊とともに共産主義が事実上敗北すると,「左」の人が本来持っていたはずの、「人」にこだわる視点に対する言辞も霞んでしまうようになりました。

 そして、「一人勝ち」した「お金」の人が、「人」に全く興味を示さない「新自由主義」なる怪物と化し,民族固有の文化や伝統を破壊するのみならず,今、同じ地球上で同じ太陽を見ている人々を不幸にすることも厭わないグロテスクな姿を晒すようになったのです。

 そうこうしているうちに、情緒を伝える風景や伝統は破壊され、今生きている人が、互いを信頼し尊敬し安心して生きてゆく最低限の暮らしも破壊されそうな状況に押しやられ、「左」の人は、自分たちが脱出したかった因習が、こんなにも崩壊していることに恐れおののき、「右」の人は因習をと訴えたところの人々が、ちっとも幸せになれない状況にいることに驚愕しているのではないでしょうか。
 このような状況は、「左」の人たちが歴史をかき回したからこんな風になってしまったのでしょうか?わたしは、そうではなくて,「お金」に対する洞察と警戒心の希薄さが原因だったのではないかと思っています。

 そういうわけで,今の社会に対する切実なテーゼは、原点に返って,「今生きる人々が幸福である為に」みんなで連帯し,「今生きる人々は過去の歴史の上に生きている」ことを自覚して、人々の培ってきた文化を大切にしていかなくてはいけないのだという点にあると思います。そして、「膨張をその本質に抱くマネー?経済にかわる経済パラダイム」を構築していかなくてはいけないのではないかと、思うのです。(「モモ」を読みなおさなくっちゃ。)
 歴史も経済もイデオロギーも全くの素人考えで大変恐縮致しました。

 そんなわけで、不偏不党というのは、ごくごく当然の結論になってしまうのですが,「人」に立脚するということなのかな・・・。その視点を忘れなければ、別に不偏不党でなくたって、今日的な問題に対し、きっと大きな力になれるのだろうと、淡い期待を抱いているのです。
 
うーん,難しい。やはり、TN君ごまかせり。

 
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by pantherH | 2005-12-12 18:30 | 社会
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