共謀罪

 秋元波留夫先生の近著「精神医学遍歴の旅路」(創造出版)に、「治安維持法と伊藤千代子」という章があります。先生は元東京大学精神科教授で、その後都立松沢病院において民主的な精神障害者医療に尽力されました。時代に先駆けて「施設から地域へ」を唱えられ、東京・小平市を中心に精神障害者の地域ケアの確立に尽力されている方です。先生は最近今の日本が大正末期から昭和初期の治安維持法が制定されたころに良く似ているという危機感をお持ちで、先人の多くの犠牲の上に築かれた今日の平和の尊さを、戦争を知らない世代に伝えなくてはとの思いで、100歳を超えてなおパソコンと苦闘されて精力的な執筆活動や日本各地での講演活動をされています。

 伊藤千代子は長野県諏訪地方出身で、東京女子大学に学ばれたまさに新時代の先駆的女性の一人でした。3・15大検挙事件(1928年)で共産党の秘密印刷所で検挙され、特高による熾烈きわまる拷問を受けて拘禁精神病を発症してしまいます。松沢病院に入院してからも、治療の一切を拒否してこころを閉ざし、まもなく肺炎を発症してわずか24年2ヶ月の生涯を閉じます。伊藤千代子はちょうど先生と同年代で、医学部を卒業してまもなく都立松沢病院に赴任した秋元先生は治安維持法による拘禁精神病患者を受け持ち、良心に従って権力と戦い、そして倒れた同世代の若者を治療しながら悲痛な思いにかられたことを忘れられないと述べています。

 政府は執拗に現代の治安維持法である共謀罪を成立させようとしています。治安維持の名の下に拘禁されたとき人はどのようになるのか、治安維持法と伊藤千代子より以下に引用したいと思います。
症例 伊○千○ 25歳 女性 治安維持法違反 (野村論文より、原文は旧字体およびカナ)
 
 家族歴:父母は入養子、患者の生後母死亡のため、父は離籍せられ消息不明。養祖母健存、主に祖母に養育サル。同胞なし。二十二歳結婚挙子なし。

 本人歴:気質快活・温和・無口。頭脳明敏。高女卒成績優秀、後小学校員となり、女子大学英文科に入る。これより前、夫の影響により、左傾思想に興味を持つ。入学後学内社会科学研究会に加入、昭和3年3月15日検挙、次いで刑務所に収容せらる。

 発病以来の症状と経過:未決拘留中頚部リンパ腺腫を病み手術を受けたるも、快復治癒遷延したるため、医師に病気の原因・予後等を執拗に質問し心配し居たり。昭和4年8月1日挙動に不自然なる様子見ゆ。即ち時に大声を出し、翌2日に独房の壁に向ひ隣室の人と対話する如き独語をなす。次第に独語旺盛となり、談話内容散乱し拒食となれり。次いで運動興奮し、裸体にて蚊帳を腰に巻き室隅に蹲居し、経血にて身体を汚染し、他人の注意に一切応ぜず。8月11日義母面会時支離滅裂の高声独語あり、全く周囲の見境なかりきと言ふ。8月17日入院。(以上刑務所報告)

 入院後の症状と経過:入院当時身体発育良、体格強栄養中等、毛髪豊富漆黒、変質畸形なし。膝蓋腱反射亢進。姿態無頓着・無遠慮・顔貌表情に乏しく硬固、応答は自己の姓・年齢正答、他は拒絶的、出鱈目多し「此処は何処か」「病院・・・井上・・・」「子供はあるか」「知りません。雀の学校・・・」「姉妹は」「あります。幾人か数へ切れません」「結婚は何歳か」「「25歳(正)」「東京の大地震は何年か」「大正11年ぢやないですか・・・馬鹿馬鹿しい」「法律とは何か」「独裁独歩主義です」「何故入院したか」「私も共産党ですよ」云々。『知人が自分を呼んで居る。アララギ社同人です。』と言ひ、幻聴存するものの如し。病室にては興奮落著なし。8月21日病棟内の診察室に伴ひしも拒診。絶えず独語し続く。内容散乱纏りなし。意思阻碍し、『先生の所へ行きたい』と泣出しさうに大声哀訴す。間もなくげらげらと笑ひ、又顔を歪め虐待せらるる如き様子を呈し『嫌だ嫌だ、知らない知らない』と連呼す。其後8月31日迄10日間拒絶症緘黙。9月1日高熱を発すれど拒診。9月5日午前9時綉色の痰を多量に喀出。9月6日夕刻より起き出で枕頭の手拭を取り、頬冠りをなす。悪寒あり。時に含嗽をなす。9月8日義母面会時自発的に漬物を要求す。他人とは語らず、質問にも答へず。義母との対話は相当によく纏り居り、表情普通。9月24日肺炎死亡。
 
 要約:本例は家庭的には慈愛に恵まれず、性格真卒・研究心に富み真面目・熱中性。治安維持法に触れ入所し、1年5ヶ月を経て夫の思想転向を憤り感動煩悶、後心気症となり幻聴旺盛、意識混濁興奮状態となり、入院後肺炎にて死亡す。興奮錯乱は緊張病のそれに酷似するも、感情の環境に対する反応は一部敏感にして単なる拒絶症と処理せらるべからぬ所あり、殊に好悪の感情は現実社会への増悪となり、病像によりて心因性憤怒感情による反応を著しく認め得る拘禁性乖離性反応型に属するものと考ふるなり。
(引用終了)


 最愛の同志であり夫の浅野晃は検事の熾烈な弾圧に屈して転向を表明します。検事は浅野の上申書を千代子に読ませて転向を迫ったということです。必至に特高の弾圧に耐えていた千代子が突然精神に異常を来したのは、夫の上申書を読んだことが原因でした。伊藤千代子の研究者である東栄蔵さんの著書から、亡くなる10日前、千代子が心を許していた義母が一泊の保釈出所を許された浅野を伴って松沢病院に千代子を見舞った時の様子を引用します。千代子の深い絶望に悲しみが込み上げてきます。
いち早く千代子を見つけた母が手招きすると、千代子はすぐ寄ってきた。けれど私や刑事が立っているのに気がつくと、おびえたように後ずさりした。母はそれを呼びとめて「そら晃が来ているよ。会いたかったでしょう」といった。私の名前を耳にした千代子は、一瞬記憶を呼び戻したのか、ちらりと私の顔を見て、かすかに頬を染めた。「千代、わかるか僕だよ」と私はいった。しばらく私を見ていた千代子は、急に母の方へ向いて首をふって見せた。こどもがよくするいやいやだった。そして仲間の群れへ逃げ込んでしまった。いくら母が呼んでも、二度とこちらに戻って来なかった。仕方なしに私らは立ち去った。振り返ってみると、彼女はみんなに交じって、無邪気に笑いこけていた。
(引用終了)

 
 自らの良心に従って権力に抵抗した若者たち。彼らは必至に言論弾圧や戦争に反対を唱えていました。良心に従う自由を奪われた時、そこにあるのは深い絶望と隷属でした。

 現在、長野県諏訪市の龍雲寺の境内にある千代子の顕彰碑には恩師でアララギ派の歌人土屋文明の詠んだ短歌が刻まれています。
 高き世をただめざす、をとめらここにみれば、伊藤千代子がことぞかなしき
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by pantherH | 2006-03-19 18:39 | 社会
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