いてくれるだけでありがとう(2)

 Under the Sunの金曜コラム「愛」ではかっこつけすぎて恥ずかしいエントリーになってしまいました。実はコラムに向けて「愛」について思い巡らしている時、「愛」の対極にあるもの、「愛」の対極にある行為とはなんだろうかと考えていました。思い浮かんだ言葉は「人を殺す」ことではないか、ということです。では何故「人を殺す」ことが「愛」の対極に位置するのか。それは「愛」が「人間の存在を全肯定する行為」だからではないかと考えたのです。
 以下の私の文章はUTSのコラムに相応しいのだろうか、自分のブログで発言すべき文章ではないかと思われたので、後半部をここに掲載したいと思います。

 昨今、死刑肯定論が世論の多くを占め、死刑廃止論者は隅に追いやられています。今週の光市母子殺人事件に関する報道を見ても、被告の弁護士一人をその他大勢で取り囲み、被告を弁護することすらおかしいとの勢いで死刑を要求しています。たとえ重罪を犯した人間であったとしても、人に対しお前は死ねと集団で言う光景に、猛烈な野蛮さを感じてしまいます。
 
 私は法については全くの素人ですが、法治主義とは「復讐」を禁ずることで、社会秩序を維持しようとする考えなのではないか、そしてとりあえず「国家」が一定の倫理と秩序(法)に基づいて、罪を認定し、その行使(刑)を代行するというものが法治主義なのではないかと思っています。ゆえに、罪の認定にあたっては、最大限客観的事実に基づかなければならず、事実認定を見誤りうる自白の強要は回避されるべきであり、事実は見方によって必ずしも真実たりえないので、一元的視点での事実認定を回避するために検察と弁護士双方の存在があるのだと思っています。被告の人権が過度に守られているとする意見をよく耳にしますが、罪の認定にあたっては最大限客観的事実に基づかなければならないことをふまえれば、至極当然だと私には思えます。メディアなどで、こんな被告は問答無用で死刑だという人は、罪の認定の基礎となる事実をどれだけ2元的に検討しているのでしょうか。

 一方、加害者の人権が護られているのに対し、被害者の人権は全く蔑ろにされているという意見があります。被害者自身がそう主張されているのですからその通りなのだと思います。では、被害者の獲得したい権利とはどのようなものなのでしょうか。光市母子殺人事件の被害者の遺族である本村氏は「加害者に死刑を求めること」であると主張していますが、彼は当初から獲得したい権利は「死刑を要求する権利」であると主張していたのでしょうか。私の記憶では、当時、「加害者に直接会って、私の苦しみや怒りをぶちまけたい。お前の行為によってこんなにも苦しんでいる人間がいるんだということを知らしめたい。そして同じ苦しみを彼にも味わってもらいたい」と主張していたと思います。しかし徐々に後半部の「同じ苦しみを味あわせたい」という主張が純化し、最終的に「死刑を求めたい」という主張に変化しているように思われます。ここでもう一度検証しなければいけないのは、被害者の最初に抱いた純粋な感情は、「被害者の悲しみや苦しみを受け止めよ、そして謝れ、そしてお前は何故そのような行為に及んだのかはっきり説明しろ」ということで、被害者との面会や裁判や捜査の進展を知りえない状況に置かれていることに憤り、その感情を満たす権利を要求していたのだということです。政府や司法はこれに対し、柔軟な検討や対応をしたのでしょうか。遺族がグリーフ出来る環境整備を法を含めて検討したのでしょうか。より本質的な要求を黙殺し、極刑を望むという感情の昇華に手を貸し、彼を利用したのではないでしょうか。

 被害感情は加害感情に比べ心の奥に長く沈殿するものですが、とはいえ人間の感情は本質的に時間とともに消化されるものであるため、本村氏も妻や娘の記憶が徐々に風化することに罪悪感を抱いていたように思われます。愛おしい妻子の記憶を護るために、彼は怒りの持続を自分に求めてきたのだと思います。怒りの持続をどこかで解放してあげることが、彼にとってもっとも重要なケアだったのではないでしょうか。しかし、メディアや世論は彼に怒りの持続を求め続けました。仮に望みどおりに被告に死刑が執行されたとして、その後の彼に去来する感情はいったいどのような感情なのでしょうか。一時的な達成感は得られても虚無感に苛まれることはないのでしょうか。後に自分が死刑を求めたことの意味を振り返ったとき、利用されていたのではないかという疑問を抱いたとき、彼の心に湧き上がる感情を思うと、まだ若いだけにとてもいたたまれなくなります。私はそういう意味において、本村氏が不憫でなりません。

 人が人を殺めることは本当に罪深いことです。そこに存在する「愛」を暴力的に切り裂くことだからです。唯一無二の存在を奪った罪を償うこととは、唯一無二の存在を尊しとする「愛」を自覚することなのではないでしょうか。「愛」は己の存在の尊さを保証するものではありません。「愛」は他者の存在を全肯定する行為なのです。ゆえに、自らの死をもって「唯一無二の存在の尊さ」を自覚させることは出来ないのです。だから、たとえどんなに凶悪犯であったとしても、「死刑」という名の下、国家的に無機質に人を殺すことは許されないのだと私は思います。そして「愛=いてくれるだけでありがとう」を自覚させる「刑」のあり方が、法治主義において問われているのではないかと思います。
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by pantherH | 2006-04-21 23:15 | 社会
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