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至福の時が何故か教育論に

 Under the Sunコラム執筆分を転載しています。お題は『至福のとき』。是非、Under the Sunにお立ち寄りください。

 僕は文章を書くのがとても遅く、一本の記事を書くのに大体3時間ほどかかってしまいます。そんな訳で、コラムを書くのも搾り出しているという感じです。今回は自分でお題を出しながら、全く書く方向性を考えていなかったのでまたまたしんどかったです。

 「至福の時」というのはきっと何かに熱中していて、それこそ食事の時間も寝ることも二の次になってしまうような時を言うのかもしれません。植村直己の生き様に憧れる自分なのですが、僕は昔から、とことん何かに夢中になることが出来ない性分だったというか、今でもそういう性分であるように思います。いつもなんか次のことを考えている、あるいは、はまってはイカンとどこかでブレーキをかけてしまう性質なのかもしれません。人はそんな僕を評して、「詰が甘い」とも「バランスがいい」とも言いますが、正確には「いちびり」で「根性なし」なのだと思っています。そんなわけで、自分が寝食忘れるほど熱中するときってどういう時なのかなと振り返ってみても、なかなか具体的な光景が思い浮かびません。

 最近スポーツ界で活躍する選手は、子供のときから親の熱心な指導をきっかけに本人がそれにのめり込み、寝食忘れて熱中したおかげで大成したというストーリーが持て囃され、芸術や学問の世界でも、幼少の砌よりその道に熱中し云々と、子供たちには早期から熱中できる何かを、熱中できる環境を、しまいには「熱中が身をたすく」となんだかネチュネチュと少々騒々しく思います。「熱中」までも与えないでくれよと思いますし、カンキョカンキョ言うけれども、そもそも熱中するための環境とはなんなんだろうかと首を傾げてしまいます。極論するならば、「ほっとく」ということなんじゃないかと思ったりもします。

 確かにいつの時代も、スポーツにしろ芸術にしろ、あるいは学問にしても、「熱中」する心に突き動かされ、一つのことを深く追求し、常にその中に自分を置き続けることで、より磨かれ、より研ぎ澄まされ、あるいはセレンディビティーがそこに舞い降りて、「作品」となったのだと思います。そして人はその美しさに感動や共感を覚えたのだと思います。しかし誤解を恐れずに言うならば、熱中は本人の魂の問題であり、作品を醸す土壌はあっても、設えられた環境なんか生活の保障以外にこれっぽっちも本人の精神活動に恩恵をもたらしたとは思えません。所詮、教育や環境でこのような高い精神性を育むことなんか出来やしないのだと思います。

 誰もが一流のアスリートや芸術家、学者を目指す必要などないし、すべての子供にそのような非凡な能力が宿っている訳ではありません。教育や環境が出来ることは一流を育てる事ではなく、非凡なパフォーマンスの価値を評価できるように、美しいものを愛でる柔らかさと、作品の背景を理解する教養を身に付けられるようにすることなのではないでしょうか。
 とかく様々な問題の答えを教育や環境に求めがちですが、そこに答えを求めて思考停止に陥っている感があります。そもそも教育に過度の期待を寄せることは間違いであり、AをAであると分かる最低限の教養を身に付けるだけの役割でいいのではないかと少々危険なことを思うのでした。

 随分と「至福の時」のテーマから逸脱してしまいました。薮蛇にも、難しいテーマに入り込んでしまい、教養にしても精神にしても他の言葉にしても、言葉の使い方が難しくとても曖昧で一人よがりな文章になってしまいました。うーん。難しい。
by pantherH | 2006-05-19 01:13 | Under the Sun
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