「僕の叔父さん」を読んで

Under the Sunコラム執筆分を転載しています。お題は、『最近読んだ本』。是非、Under the Sunにお立ち寄りください。 

 最近読んだ本は、中沢新一「僕の叔父さん、網野善彦」(集英社新書)です。2004年2月27日に享年76歳で亡くなられた、歴史学者 網野善彦に心から憧憬と友情を抱いていた中沢新一が、叔父である網野さんを追悼して上奏した本です。

 中沢新一と網野善彦の交流は中沢新一5歳の夏、父の妹が旦那である網野さんを山梨の実家に連れて来たことから始まります。網野さんは幼少期の中沢氏に、日本の歴史の物語を話して聞かせ、そのお話の面白さに中沢氏は網野さんが訪れるのを心待ちにしていたとのことです。

 コミュニストであり農民であり民俗学者でもあった父が、農本主義的マルクス主義を否定し、科学技術の発展こそが人間を因習から解放し人間に本当の自由をもたらすと主張し、一方、科学技術史研究家であった父の弟が、農村における土着的な生活こそが人間の本来あるべき姿であると主張する、なんとも面白い議論が毎晩中沢家で繰り広げられ、網野さんはそれをじっくり聞き入り、中沢氏は興味津々にその議論の行方を見守っていたのだそうです。「網野君はどう思うのだね?」という中沢一家からの質問に、網野氏は「晩年のマルクスとロシアの女性革命家ザスーリッチが交わした往復書簡で、マルクスは『ロシアのミールという農村共同体を調べてみると、それはとても素晴らしい要素をたくさん持った社会的組織体であることを知った。このミールを破壊してその廃墟の上に立つことによってしかロシア革命は進めることが出来ない、という考えを私は今では否定する。』と書きました。マルクスはミールを破壊してその先へ進んでいくという考えを否定しています。一方、彼はミール共同体へ帰れといっているのかといえばそうではない。ミールという農村共同体の中に保存されている原始・未開の部分を取り出してきて、それを新しい社会を構築する原理に据えるべきだと主張しているのではないでしょうか。」と答えます。

 僕は日本国憲法を愛し、誰もが幸せに生きるためには、パブリックという概念は当然で、富の再分配を通じて平等を目差す、それを地球規模で行っていく世界国家などという夢想を抱いていたこともありました。同時に、世界国家などという包括的な国家観は、ソ連の官僚主義、中国の天安門事件などを見て、果たして人を幸せにし得るのだろうかとの疑念を抱いてもいました。それでは地域主義(地球規模で捉えた場合ですが)が正しいのかと問うと、その殆どが民族主義的排他主義に陥り戦禍に明け暮れている状況を見て疑問を感じ、はたまた、現実から乖離した理想こそ問題であるとして、現実としての市場経済やマネー、専制というものを全肯定すると、歴史や現在の社会問題から浮かび上がる不正義や問題点の原因こそがそこにあるという、まるでエッシャーの騙し絵のような思考の世界に陥っていました。

 網野さんの指摘された視点、即ち私達の立脚するところを見つめ、それを踏まえて新しい社会を構築していくという「等身大の地域主義」こそ、この思考の堂々巡りから脱出する鍵となるのではないかと思いました。続くアジールに関する研究でも、今日的な問題に対し、今でも十分に新鮮な視点が展開されます。

 中世の日本では権力による法の及ばない、「アジール(避難所)」という世界が日本に存在しました。アジールは権力による支配から人間を自由なところに置き、その領域においては、世俗的な封建的共同体の支配を脱して、土着的なカミによる支配をもって、原始的な共同体を形成してきたそうです。「自由」はフランス革命後、西洋から輸入された概念のように思われますが、中世日本において、人々は内心に応じて自由を求め、封建的共同体ではない新たな共同体を標榜した、即ち自由を標榜し社会を形成した人々がいたと主張されています。

 現代社会は情報革命の影響もあり、権力の及ばないアジールを徹底的に否定しています。日本においては精神のアジールさえ権力や世論により踏みつぶされかねず、また、社会問題化している「ひきこもり」は、ある意味精神のアジールを求める行為であるにも関わらず、それさえも許されない状況にあります。今日の組織化された社会では、権力支配や社会通念を超えたアジールを希求することは悪となります。しかし私は読みながら、悪であるところのアジールにこそ失われた楽園が存在し、そしてそのアジールは新たな共同体の中に存在し得るのではないかという思いに駆られました。

 共同体と一口に言っても、これまでの共同体は封建的共同体であり、人々はそこからの解放を求めて都市を形成してきました。都市は元来人々の自由への希求の結果であったのです。その結果生じた今日の地方没落、都市の無機質という問題に対し、共同体を再評価して因習に縛られた封建的共同体への回帰を求める声も聞こえます。しかし、歴史的必然性や、そこにアジールが存在し得るのかという観点から考えても、封建的共同体の希求は時代錯誤としか言いようがありません。共同体そのものが新たなステージを求められているのです。

 新たな共同体のステージとして、人間が自然の一部であることを強調した、自然に宿る「カミ」を畏れる「原始的なアニミズムを柱とする共同体」と、民主主義の成熟に伴う、「個々の自由意志により構成される共同体」という2つのモデルがこれまでに提示されて来たと思います。前者のモデルに対し、私は、原始的アニミズムがカルトを克服して普遍化し得るのか、科学技術をどのように捉えるのか、あるいはそこに求められるストイシズムをいかに獲得し得るのかという問題に関して考察すら出来ていません(ゆえにオウムの問題は非常に重要なテーマなのです)。また、もう一つのモデルである、個々の自由意志により構成される共同体は、口だけではなく身体をも動かさなくてはならず、その能動的行為に対するしんどさも手伝って、たやすく封建的共同体あるいは馴れ合いに堕してしまうという問題を孕んでいます。

 本書を読んで、網野さん自身の封建的共同体から新たな共同体のステージへの模索と、自らに対しそのステージへの意識を常に働きかけ続けなければならないのだというメッセージではないかと思いました。そしてそれは民主主義への強いエールなのだと思いました。
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by pantherH | 2006-06-08 21:55 | 読書
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