今在ることの恥

 どんなに日常生活から戦争の記憶が風化されようとも、8月15日の終戦記念日は、過去に日本の犯した過ちを反省し、戦争という人類の過ちを顧みるとても意義深い日のはずでした。なのに小泉純一郎は、なかば居直って、靖国神社を参拝し、静かに戦争を振り返る貴重な日を穢してしまいました。私は昨日一日、怒りと絶望と恥辱の感情で、ほとんど口をきくことも出来ませんでした。

 8月15日を失ってしまいました。
 戦後を失ってしまいました。 
 信頼を失ってしまいました。
 時間を失ってしまいました。
 日本は完全に割れてしまいました。
 コンセンサスが音を立てて崩れてゆくようです。
 
 小雨降るなか、餓鬼の参るその姿は、これから全てを失う物語のプロローグに見えました。

 あのようなおぞましいサディストを首相に頂いた日本の国民であることを恥じずにはいられません。彼を首相の座から引きずり降ろすことも出来ず、抗議も行動もせず、首相の靖国参拝を日本人自身が強く反対しているのだというアピールもせず、ただ日本の孤立化に嘆息するばかりの自分自身を恥じずにはいられません。
 
2003年12月9日、自衛隊のイラク派兵が閣議決定された日、まごうかたない憲法破壊者、小泉純一郎が、「憲法とはこういうものなのだ、皆さん、読みましたか」とのたまう。あろうことか、自衛隊をイラクに派兵するその論拠が憲法前文にある、と言ったのでした。これは二つの意味で屈辱的でした。最悪の憲法破壊者であるファシストが、全くでたらめな解釈によって、平和憲法の精神を満天下に語ってみせたということ。二つ目は、小泉の話を直接聞いていたのは、他でもない政治部の記者たちです。彼らは羊のように従順にただ黙って聞いていた。翌日の新聞は一斉に社説を立てて、このでたらめな憲法解釈について論じたでしょうか。ひどい恥辱として憤怒したでしょうか。いない。ファシズムというのは、こういう風景なのではないか。

 辺見庸の新刊、『いまここに在ることの恥』から抜粋


 そして彼は、「恥を恥とも感じないことがさらに恥辱を本質的に倍加させる。」とも言います。それから、恥を恥とも感じずに過ごして来た2年半、恥辱は天文学的にまで倍加して、2006年8月15日、あの日と同じ光景が繰り返されました。無自覚ゆえに肥大化した「恥」が、マグマのように湧出し、日本中の足下をどろどろと淀み横たわっています。しかし今なお恥を恥と感じずに、8月15日首相の靖国参拝は日本人の恥の問題にも関わらず、中国と韓国の反応にのみ、小泉もマスメディアも、小泉の犯した罪をなすり付けています。

 済んでしまったことなので仕方がない、むしろここは大人になって、未来志向のもと、「恥」と「怨念」を封じ込め、とりあえず「なかった」ことにしておきましょう。中国も韓国もそして日本に於いても、周囲はそのような大人の対応を迫られるでしょう。もしそうしなければ、怨念に再び灯がともり、取り返しのつかない対立(それは紛れもなく、日本の戦争責任であり、天皇の戦争責任であり、今日の天皇制の問題に帰着するのです)が、国内に於いても外交に於いても顕在化してしまうに違いありません。そのパンドラの箱を開けてはなるまいと周囲が躍起になる、ならざるを得ないことを分かっているからこそ破廉恥小泉は断行してみせる。

 なんと卑怯、卑劣極まりない行為でしょうか。
 靖国参拝の問題点は多々あるけれども、「卑怯だ」。この一言に尽きると思います。
 
 そして、なかったことにした「恥」と「怨念」は澱となってますます肥大化してゆくのです。

 
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by pantherH | 2006-08-17 00:21 | 社会
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