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POLITICS (2) 納得について

 先のエントリーで、「政治」に代わることばとして「納得」ということばを使ってみてはどうだろうか。という旨の提案をした。あまりかっこの良くない「納得」ということばであるが、あえて「納得」ということばを推薦する、そのこころについて触れてみたいと思う。

 「納得」には、一人称の納得、二人称の納得、三人称の納得がある。
 一人称の納得とは、自分自身が自分自身に対し、あるいは森羅万象に対して納得することであり、納得のいかない様々な事柄や葛藤に対し、苦しんだり別の視点で眺めてみたりしながら、自ら折り合いをつけていくことである。そして自ら納得するために努力したり諦めたりするのである。ゆえに一人称の納得は人生そのものであるように思う。
 二人称の納得とは、相手に自らの存在や意見を受け入れてもらうことである。そこには言葉では表せない、信頼や安心、その人の生き様、情熱、眼差しといった要素が含まれてくる。ゆえに言葉のみならず自らの総体をもってのぞむ二人称の納得は、恋愛や友情、リアルな人間関係そのもであるように思う。
 三人称の納得とは、面識もない第三者を納得させることではなく、複数の主語が納得することである。すなわち納得しあうことだ。社会を形成していく上で無視することの出来ない他者を意識し、そこにコンセンサスを醸成していくことであり、人間は関係性の生き物であるとするところのその根幹をなすことばだと思う。こう考えると、「納得」ということばは、人間を最も瑞々しく表現したことばであり、最もヒューマニズムに溢れることばなのではないかと思われるのだ。ここに「政治」ということばにかわって「納得」ということばを創成しようとする理由の一つがある。

 しかし、「政治」と「納得」には大きな飛躍が存在する。それは、三人称の納得の抱えるパラドックスと言ってもいい。すなわち、「社会を形成していく上で本当に納得しあうことは可能か」という命題である。性善説の人は可能だと応えるかもしれないが、僕は不可能であると考えるところから出発する必要性を感じている。
 「納得しあうこと」は「コンセンサスを醸成すること」であると述べたが、我々人間にとってのコンセンサスとはなんだろうか。以前僕はUnder the Sunのコラム 「死は希望である」で、安心して死ねるのだもの生きることがどれだけ希望に満ち溢れるだろうか、と書いた。説明が足りず、死を礼賛することばとして捉えられてしまうのではないかと懸念もした。しかし、「死が希望である」にはもう一つの思いがあった。それは、「死」こそ人間の唯一のコンセンサスであり、誰もがその前では公平である、人間は「生きる」ということにおいて三人称の納得をすることは不可能な動物かもしれない、しかし、こと「死」に関しては、誰にとってもコンセンサスであるがゆえ、そこに「納得」が存在し得るという思いであった。このようなコンセンサスは、「死」と「生まれてきたものは一同に無垢である」という「生まれる」以外には存在しない。「生きる」はどうしたって個々によりそのベクトルは異なり、コンセンサスを醸成することは難しい。まして「生きる」ことは本来もっと自由でいいはずだ。

 「政治」とは「納得」である。ゆえに極論すると、政治は誰ものコンセンサスであるところの、「人は死ぬ」「生まれしものは皆無垢である」の2点に関し、安心ときめの細かさを充実する以外に、すべき課題はないとさえ言える。政治が生きる多様性を保障するなどというのは幻想であり、かつ驕り甚だしい。政治が「生きる」ことに固執している以上、利権も特権も不公平もなくならない。パラドックスとしての「納得」。これが、「政治」ということばに代わって、「納得」を創成したいと考える理由のもう一つである。
 
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by pantherH | 2007-06-24 01:18 | Pではじまることば
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