「ほっ」と。キャンペーン

カテゴリ:社会( 34 )

後期高齢者医療

 4月から後期高齢者医療制度というとんでもない制度が動き始めました。政府は周知徹底に不備があったと陳謝していますが、あらかじめ制度の内容について明確にしてしまっては、それこそ大変なことになると承知していたので、確信犯的にアナウンスメントを控えていたのが本当のところでしょう。大手メディアもこの制度のトンでもぶりを認識していたにも関わらずずっと沈黙してきて、制度が出来上がってから取上げる。猿芝居もいい加減にして欲しいものです。

 リハビリに関する診療報酬140日上限打ち切り制度や、障害者自立支援法なる悪法の場合もそうでしたが、一度制度として成立してしまうと、窓口でどんなにその制度の矛盾や非現実性を指摘しようとも、実際のサービスを継続して受けようと思ったら、制度に従わざるを得ないのが現実です。「弱者は現実問題結局従わざるを得ない」と、居直っている政府のやり方に猛烈な野蛮さと下劣さを感じます。

 で、後期高齢者医療ってどんなのなのかと思い、厚労省のホームページでリーフレットや会議資料など目を通してみました。本音は医療費の削減にあり、政府発の一方的なプロパガンダという感じがします。作文としてはまあよく出来ているようにも思えますが、一つの制度だけでは心もとないサービスを、色々工夫してなんとか提供している現場に対する想像とかが欠落している気がして仕方がありません。残余能力の少ない後期高齢者は在宅介護、医療の重点配置、現役世代の負担軽減、が政府の3大主張だと言えそうですが、全部絵に描いた餅なんですよね。
 現在の日本に在宅・介護の担い手はいますか。介護従事者の給料は月10万円ちょっとで、それも殆どが非正規雇用。受け皿のソフト面を顧慮せずに自宅、介護と大口ばかり叩く。そこで外国人看護師だ介護士の規制緩和をとかが議論されているようですが、全く本末転倒です。発展途上国で少ない予算で自国の医療福祉を支えるために育てている看護師が、先進国やアラブ諸国の高齢者を支えるために雇われ、いつまでたっても自国の医療福祉が充実しない人的な搾取に関する国際問題だってあるというのに、全く想像力を欠いています。
 医療の重点配置の重要性は分かるけれども、保険点数制度による利益誘導で姑息にやるから、中小規模の病院なんかは疲弊して、厚労省が描く医療圏なんかほとんど崩壊しています。
 現役世代といわれても、非正規雇用ばかりで、自分の社会保障費ですらままならない現実に若者世代は晒されています。よくもまあ、美辞麗句を並べられるものだと逆に感心します。

 ただ、資料を読むと、一方的に厚生官僚は国民の敵だ!と糾弾する気持ちにはなれない部分もあります。なんか敵でもないという感じですね。何でなのか良くわかりませんが、彼らの空回り振りが凄く伝わってくる感じがするのです。現場で患者さんのことを第一に考えている人たちが描いている進歩的なイメージを汲もうとしているんだけど、言葉やイメージだけが上滑りしている感じが随所に見られます。騙してやろうという悪意はあまりなく、良いのを作っているという勘違いが紙面から感じられます。上滑りしているのは、作成段階でも検討委員会でも国会でもメディアからも、大きな波風が立つことなく全部通ってしまっているからなんだろうなと感じずにはいられません。政治だけでなく国民から緊張感がなくなって久しいけれど、緊張感のなさ故の劣化をまじまじと感じた次第です。せめて国民くらいは波風を立てないと、このまま加速度的に転がっていきそうで薄ら寒くなります。
[PR]
by pantherH | 2008-04-18 02:13 | 社会

今在ることの恥

 どんなに日常生活から戦争の記憶が風化されようとも、8月15日の終戦記念日は、過去に日本の犯した過ちを反省し、戦争という人類の過ちを顧みるとても意義深い日のはずでした。なのに小泉純一郎は、なかば居直って、靖国神社を参拝し、静かに戦争を振り返る貴重な日を穢してしまいました。私は昨日一日、怒りと絶望と恥辱の感情で、ほとんど口をきくことも出来ませんでした。

 8月15日を失ってしまいました。
 戦後を失ってしまいました。 
 信頼を失ってしまいました。
 時間を失ってしまいました。
 日本は完全に割れてしまいました。
 コンセンサスが音を立てて崩れてゆくようです。
 
 小雨降るなか、餓鬼の参るその姿は、これから全てを失う物語のプロローグに見えました。

 あのようなおぞましいサディストを首相に頂いた日本の国民であることを恥じずにはいられません。彼を首相の座から引きずり降ろすことも出来ず、抗議も行動もせず、首相の靖国参拝を日本人自身が強く反対しているのだというアピールもせず、ただ日本の孤立化に嘆息するばかりの自分自身を恥じずにはいられません。
 
2003年12月9日、自衛隊のイラク派兵が閣議決定された日、まごうかたない憲法破壊者、小泉純一郎が、「憲法とはこういうものなのだ、皆さん、読みましたか」とのたまう。あろうことか、自衛隊をイラクに派兵するその論拠が憲法前文にある、と言ったのでした。これは二つの意味で屈辱的でした。最悪の憲法破壊者であるファシストが、全くでたらめな解釈によって、平和憲法の精神を満天下に語ってみせたということ。二つ目は、小泉の話を直接聞いていたのは、他でもない政治部の記者たちです。彼らは羊のように従順にただ黙って聞いていた。翌日の新聞は一斉に社説を立てて、このでたらめな憲法解釈について論じたでしょうか。ひどい恥辱として憤怒したでしょうか。いない。ファシズムというのは、こういう風景なのではないか。

 辺見庸の新刊、『いまここに在ることの恥』から抜粋


 そして彼は、「恥を恥とも感じないことがさらに恥辱を本質的に倍加させる。」とも言います。それから、恥を恥とも感じずに過ごして来た2年半、恥辱は天文学的にまで倍加して、2006年8月15日、あの日と同じ光景が繰り返されました。無自覚ゆえに肥大化した「恥」が、マグマのように湧出し、日本中の足下をどろどろと淀み横たわっています。しかし今なお恥を恥と感じずに、8月15日首相の靖国参拝は日本人の恥の問題にも関わらず、中国と韓国の反応にのみ、小泉もマスメディアも、小泉の犯した罪をなすり付けています。

 済んでしまったことなので仕方がない、むしろここは大人になって、未来志向のもと、「恥」と「怨念」を封じ込め、とりあえず「なかった」ことにしておきましょう。中国も韓国もそして日本に於いても、周囲はそのような大人の対応を迫られるでしょう。もしそうしなければ、怨念に再び灯がともり、取り返しのつかない対立(それは紛れもなく、日本の戦争責任であり、天皇の戦争責任であり、今日の天皇制の問題に帰着するのです)が、国内に於いても外交に於いても顕在化してしまうに違いありません。そのパンドラの箱を開けてはなるまいと周囲が躍起になる、ならざるを得ないことを分かっているからこそ破廉恥小泉は断行してみせる。

 なんと卑怯、卑劣極まりない行為でしょうか。
 靖国参拝の問題点は多々あるけれども、「卑怯だ」。この一言に尽きると思います。
 
 そして、なかったことにした「恥」と「怨念」は澱となってますます肥大化してゆくのです。

 
[PR]
by pantherH | 2006-08-17 00:21 | 社会

硫黄島玉砕(2)

 昨日のNHKスペシャル「硫黄島玉砕」は、あまりの衝撃に見終わってから、番組の内容をなぞることしか出来ませんでした。
 戦死の殆どは、果敢に闘いその戦闘で死んだのではなく、行軍に次ぐ行軍、飢えと乾き、怪我と感染症、寒さや狂気が原因であったと言います。硫黄島での戦いも、地を這うような地獄であったことが生存者の証言から明らかにされていました。迫り来る死への恐怖、人間性を失うことへの恐怖とその結果としての狂気。戦争は人間に対する最大の冒涜なのだと思います。敵を人間と見なさないからこそ戦争が出来るのであり、自らの兵士を人間と見なさないから戦争が出来るのであり、また自らが人間であることにあえて目を瞑ることで戦争に加われるのです。

 私がもし戦場に行ったら、人間性を維持し続けられるでしょうか。

 戦争に行ったら、自分が生き残る為に、いやそんな崇高な気持ちすらなく、そうしないと気持ちがやっていけないから、相手を殺すことも、仲間を見捨てることも裏切ることも、略奪することも凌辱することもしてしまうような気がしています。ひとたび戦地に赴いて、理性やバランス感覚、柔らかい感性を働かすのは至難の業に違いありません。

 もし私がレバノン人だとしたら、毎日イスラエルの空爆に怯え、家族共々身を寄せあって、自分のところには落ちてくれるなと祈り、ヒズボラのロケット弾の発射音に、あー、また仕返しが10倍以上になって返ってくるのかと、ハラハラしながら家族と抱き合う以外にない日々を送り、外には各国の報道陣が訪れているのに、この不条理がいつまでも続いていることに、世界中の悪意を感じ、それでも生きなきゃ、家族を支えなきゃと必至に我慢して、我慢して、我慢して。いつぞやそれは我慢の限界に達して発火するに違いありません。

  戦地に赴き人間性を維持することや、どんな暴力にさらされても戦争に行くまいと抗うことや、戦争に行って生き残るために逃げ回ることよりも、今、戦争に行かなくてすむように、日本が再び戦争をしないように、戦争放棄を維持し、平和を希求する声を上げ続けることの方がはるかに現実的で、容易なことです。

 あるいは、我慢して、我慢して、発火を抑えることも至難なことなのだと思います。事実、私はテレビでブッシュを見る度に彼への殺意が込上げてしまいます。今、我慢の限界を越えて暴力の連鎖に火がつく前に、そしてそ出口の見えない殺戮の連鎖となる前に、イスラエルの暴力を、アメリカの暴力を何とかして止めないといけません。

 NO MORE WAR!!
[PR]
by pantherH | 2006-08-08 22:56 | 社会

硫黄島玉砕(1)

 NHKスペシャル「硫黄島玉砕戦~生還者 61年目の証言~」を見ました。
 「勇壮果敢に敵に挑んだ硫黄島守衛隊、死してなお日本は敵を撃退し・・・」と大本営から戦争を鼓舞する報道がなされていましたが、2万人以上いた守衛隊のわずか数%しか生きて帰還出来なかった硫黄島での戦闘は、想像を絶する地獄であったことが、60年間固く心の奥底に記憶を封じ込めていた生存者の、戦友への贖罪の一心から語り始めた証言により明らかにされていきます。
 
 火山島であるため地温が40度を越し、飲料用の水のない島に地下壕を張り巡らし、兵士たちはそこに身を潜めて、上陸してくるアメリカ兵を待ち伏せにしていました。硫黄島に送られた兵士の大半は、戦闘の訓練もされたことのないような召集兵あるいは少年兵でした。兵士の心得には、「撤退は許さず」「壕を出て戦闘を仕掛けることを慎むべし」と記され、進むことも退くことも許されない闘いを命ぜられていました。その時、東京の大本営では、硫黄島への空海路抑えられている状況では静観やむなし、と撤退の判断もせず静観という名の見殺しを決めていました。命を捨てて闘う日本兵との戦闘でアメリカ兵にも多くの犠牲者が出ました。アメリカは予備兵と大量の近代兵器を投入し、徹底的な掃討作戦に乗り出しました。地下壕の入口を見つけては火炎放射器による炙り出しなどによる凄惨な攻撃により、島の大半は陥落し殆ど勝敗は決していました。
 
 アメリカ軍による投降の呼びかけにも、日本兵は誰一人投降しませんでした。投降は軍紀に反することはもとより、投降しても不名誉のそしりを受け、どのみち処刑されると信じられていたのでした。事実、投降して壕を出た少年兵が上官により撃たれる光景を目撃したと言います。40度を超える地下壕で水や食料をめぐり、それこそ畜生の如く奪い合い、腐乱した死体の下に潜って息を潜めて敵をやり過ごし、焼き出された「炭」を食して空腹をしのいでいたと言います。ついにアメリカ軍は、ガソリンを混ぜた海水を壕の中に注ぎ火をつけました。皮膚が焼け、垂れ下がった人々の姿が炎に映し出されていました。

 この凄惨な光景が戦争の真の姿を物語っています。「彼らの死にどのような意味があるかを聞かれたら、それに応えることは難しい。ただ、意味がなかったでは済ませられない。」その凄惨さ故に今まで封印していた硫黄島の記憶は、私が語らなければこのまま誰も知ることなく葬り去られてしまうかも知れない。と、80歳を過ぎ漸く語り始めました。

『彼らの死は意味がなかったでは済ませられない』

「顕彰」ではなく、私たちは彼らの死の意味を感じなければいけない。
[PR]
by pantherH | 2006-08-08 00:05 | 社会

国防について

 Under the Sun-EQTで、国防についてのアンケートを行っています。非常にデリケートな問題であるため、アンケートの選択肢は以下の全部で8つあります。

質問:あなたが考える、この先、日本がとるべき国防の方向は?

1.非武装をすすめ、他国から侵略されても抵抗をすべきではない
2.他国から侵攻は防衛しても、攻撃はおこなうべきではない
3.専守防衛は現在でも可能なので、現状を変更する必要はない
4.武装を強化し、専守防衛に徹すべし
5.武装強化・憲法改正をおこない、専守防衛に徹すべし
6.日本にとって危険な国に対しては、先制攻撃を加えるべき
7.核兵器の開発までふくめ、軍事力を増大していく必要がある
8.その他

 私は、2.他国から侵攻は防衛しても、攻撃はおこなうべきではない を選択します。日本には憲法第9条があるからというのがその理由ではありません。理由を述べるのは非常に難しいのですが、端に私の「本能」がそう言っているからです。

 私が「国防」に関心を抱いたのは、中学生の時分に縁あってスイスに1週間旅行に行ったときです。ご存知の通りスイスは永世中立国を謳っていますが、徴兵制がひかれています。スイスを訪問した際にお世話になったホストファミリーの父親は、私が滞在中、あいにくスキル維持のための徴兵に出掛けていました。アルプスの麓では男達が射撃の練習をし、銃声が山麓にこだましていました。家には勲章が飾られ、各家には核シェルターとして地下室が備えられていました。普段はチーズやワインなどの倉庫として使っているのだそうでしたが、シェルターを備えないと家を新築できないのだと言っていた記憶があります。

 村にはスポーツセンターに併設して、というかスポーツセンターの地下に巨大な核シェルターがありました。厚さ30cmもあろうかという鉛とコンクリートで出来た重たい扉を開けてシェルターの中に入ると、放射能汚染した衣類などを着替える前室やシャワールームがあり、そこを抜けて居住空間に入ります。約2週間村人がそこで生活できるだけの水や食料や自家発電用の燃料が備蓄され、外部との連絡や情報収集のためのインテリジェンスルームまであるようで、サウンド・オブ・ミュージックでトラップ一家が目指した、大脱走でマックイーンが超えたかった、あの憧れの永世中立国「スイス」の現実に、カルチャーショック以上にカルチャーショックを受けたのでした。

 当時、NHK特集で3夜にわたって「核戦争後の地球」というドキュメンタリーを放映していました。広島型原子爆弾の何十倍の威力を持つ核爆弾が首都東京に炸裂したら、どれだけが核爆弾の放つ熱により死に、どれだけが爆風の被害を受け、どれだけが後遺症を抱えることになるのか、シュミレーションを駆使して映像化した画期的な番組でした。そして、核炸裂の後に訪れる「核の冬」の存在を知り、爆心から遠く離れた信州に住む私は、真夏にも拘らず背中に冷や汗をかき、猛烈な恐怖心を抱くと同時に、そのような兵器を開発し、更に開発し続けようとすることに怒りと絶望の感情が去来しました。
 スイスの核シェルターはまさに「核の冬」を想定しており、それも、日本の松代大本営のような一部の権力者の為のシェルターではなく、ちょっと裕福ではある村の住人達のためのものであり、核シェルターまで作って守る「国防」に度肝を抜かれたのでした。

 憲法9条により武力を放棄することで日本の平和が維持されるという理想を掲げる日本。かたや、国民の男の殆どは軍隊に徴兵され、核シェルターを作ってでも生き残ろうとするスイス。「平和」そして「国防」というものに対する考え方がこうも違うということに愕然とするとともに、スイスが正しく日本が間違っているとか、あるいはその逆であるという問題ではなく、それぞれの民族の背負ってきた歴史と、それぞれの国の地政学的な位置関係により、「平和の捉え方」や「平和の維持の仕方」は違うということを痛感させられた旅行でした。

 私は、「平和」という言葉も慎重に用いるように心がけています。イラクに訪れるつかの間の「平和」。東西冷戦下の軍事的緊張によって保たれた「平和」。核を保有することで保障される「平和」。経済的・文化的繁栄により維持される「平和」。共感と友好の感情に基づく「平和」。と「平和」という言葉には、「治安」、「政治力学」、「安全保障」、「国力」、「友愛」といったものがすべて内包されているからです。「平和」という言葉で議論してもなかなかかみ合わなかったり、深まらないのはその為なのではないかと思ったりします。また逆に、凄く力を持つのもその為とも思います。

 その上で、日本における「平和」について、「歴史」と「地政学」を踏まえ、そしてそれに「現在的事情」を加味して考えなくてはいけないのだと思っています。

 今日は疲れてしまったので、この続きは、あらためて書きたいと思います。
[PR]
by pantherH | 2006-07-13 21:45 | 社会

共謀罪は断固廃案だ

 UTSのコラムを書き上げて、UTS-HOMEを覗くと、今日にも与党自民党が民主党案を受け入れて「共謀罪」を本国会で成立させるべく、委員会で採決に踏み切る模様との情報が入って来た。

 権力側が如何様にも恣意的に運用出来る法律であり、現に911以降のアメリカでは共謀罪のもと市民運動家や平和活動家がターゲットにされています。居酒屋で冗談で「やりてー」と言ったら逮捕されるというのは大袈裟だと思うかもしれませんが、そのような拡大解釈の余地を充分に残した、如何様にも適用しうる恐ろしい法律です。少しでも権力に意義を申し立てたら、権力にマークされたら、如何様にも料理される。権力はお上だけとは限らず、会社だってそれに楯突くものを、これを使って如何様にも調理することが可能な法律です。

 私は、旧東ドイツに留学され、東ドイツの密告社会をまじまじと体験され、密告により四六時中、秘密警察に尾行された経験のある方から、密告社会の恐怖を聞いた事があります。彼はただ図書館にドイツ古典文学を研究しに通っていただけだったのですが、事もあろうか同僚の密告によりスパイ容疑をかけられたのでした。殆どノイローゼになり、ボロボロになって帰国され、後に同僚が密告者であったと知った時、凄まじい人間不信から生きる事が嫌になったと述懐していました。そんな彼を救ったのはベルリンの壁の崩壊でした。相互不信に陥りながらも、自由を求め希望を求め壁を壊した市民を見て、彼は東ドイツでの出来事を許そうという気持ちになれたのだと言います。

 なぜ私たちはこの時代に、そのような暗黒社会に生きなくてはいけないのでしょうか。東西冷戦が終焉し、漸く世界的に民主主義を如何に育むか知恵を出し合おうとしている時に、このような暗黒社会を求めなくてはいけないのでしょうか。

 映画『蝶の舌』で、反ファシスト活動に加担した容疑で連行される大好きな老先生に向かって、泣きながら罵声を浴びせる少年の「こんな世の中に、こんな世の中にしたのは誰だ」という魂の悲痛な叫びを再び繰り返さない為に、共謀罪は廃案にしなくてはいけません。

 民主党の方々、マスコミの方々、それから国民のみんな、廃案にむけてもう一度声を上げましょう。

関連エントリー
共謀罪とカルト前夜
共謀罪

共謀罪関連トラックバックセンター
TBC「共謀罪」

共謀罪反対ブログのTBC
共謀罪に反対
[PR]
by pantherH | 2006-06-02 00:50 | 社会

共謀罪とカルト前夜

 辺見庸の著作『不安の世紀から』にロバート・ジェイ・リフトン氏との対談が収められています。そこで二人はオウム真理教そしてカルトについて対談しています。リフトン氏はカルト的な集団の形成されうる強力な歴史的傾向について、社会の価値観を自分の内面に取り込むことに疑問や葛藤を感じ、もはや自分達の社会を自己の中で現実のものとして捉えることが出来ない「シンボル体系の崩壊」、核兵器や環境破壊、資源の枯渇といった自分自身や人類の永続性に対する脅威、即ち「世界滅亡の脅威」、そしてどんな些細な情報でも世界中に伝達可能な「マスメディアの革命」の3点を挙げています。冷戦構造の中で価値体系が崩壊し、テクノロジーや物質的豊かさは人類の永続性を約束しないばかりかむしろ脅威として君臨し、不安を助長するメディアにも煽られて多くの若者が精神的な救済を求めてオウム真理教に入信した。指導者は信者により神格化され、それが徐々に双方の精神的重圧となり破綻を招く結果となったのではないかと考察しています。

 共謀罪は、冷戦構造の中で保障されていた二者択一的な価値観の崩壊以上の、「内心の自由」という人類の叡智としての価値体系の崩壊をもたらします。更に、共謀罪は「暴力の独占」と「情報の独占」を本質とする国家に、二つの独占を自由自在に往来することを保証する法律です。それを行使する国家は、持続可能な社会を完全に否定する思想を内在した新自由主義を標榜し、課題山積で既に懐疑的ですらある人類の永続性について、民主的な手段を封じられ、暴力的な手段が常態化すればその芽は摘まれてしまうことになるでしょう。そして、社会を形成する大前提である「そのような惨事の起こる可能性は非常に少ない」とする安心のコンセンサスが、共謀罪による相互監視とメディアによるセンセーショナリズムによりズタズタに切り裂かれてしまいます。

 共謀罪が施行されたとしたら私はどうするのでしょうか。長いものに巻かれ言動を慎み従順に生きる道を選択するのでしょうか。抵抗と弾圧に身を置くことになるのでしょうか。社会に絶望し人間に絶望し人間を止める決断を考えるのでしょうか。それとも何らかの希望を求めてコミューン(共同体)を形成しようとするのでしょうか。しかしいかなる民主的で崇高な理想を掲げたコミューンでも、その外部から見たらカルトと映りますし、ひとたびカリスマを求めたら容易にカルト集団へと転落する可能性を秘めています。皮肉にも刑務所の中に理想的なコミューンを形成できるのかもしれませんが、一縷の希望も見えてきません。

 地下鉄サリン事件から10年以上が過ぎ、日本人はカルトについてほとんど深く考察せぬまま、麻原とオウム信者の狂気によってもたらされた事件として葬り去ろうとしています。しかし今日その歴史的傾向は更に強まっているのではないでしょうか。そして、テロやカルトを取り締まるためとする共謀罪こそが、カルトを大量に生む結果となるのではないでしょうか。そして、人間の弱さゆえ精神的なカリスマを求めたとき、破綻への道を突き進む正真正銘のカルトが誕生するのだと思えてなりません。
 
 共謀罪は何としてでも、廃案にしなくてはなりません。そしてカリスマも求めることは出来ないのです。
[PR]
by pantherH | 2006-05-09 01:09 | 社会

いてくれるだけでありがとう(2)

 Under the Sunの金曜コラム「愛」ではかっこつけすぎて恥ずかしいエントリーになってしまいました。実はコラムに向けて「愛」について思い巡らしている時、「愛」の対極にあるもの、「愛」の対極にある行為とはなんだろうかと考えていました。思い浮かんだ言葉は「人を殺す」ことではないか、ということです。では何故「人を殺す」ことが「愛」の対極に位置するのか。それは「愛」が「人間の存在を全肯定する行為」だからではないかと考えたのです。
 以下の私の文章はUTSのコラムに相応しいのだろうか、自分のブログで発言すべき文章ではないかと思われたので、後半部をここに掲載したいと思います。

 昨今、死刑肯定論が世論の多くを占め、死刑廃止論者は隅に追いやられています。今週の光市母子殺人事件に関する報道を見ても、被告の弁護士一人をその他大勢で取り囲み、被告を弁護することすらおかしいとの勢いで死刑を要求しています。たとえ重罪を犯した人間であったとしても、人に対しお前は死ねと集団で言う光景に、猛烈な野蛮さを感じてしまいます。
 
 私は法については全くの素人ですが、法治主義とは「復讐」を禁ずることで、社会秩序を維持しようとする考えなのではないか、そしてとりあえず「国家」が一定の倫理と秩序(法)に基づいて、罪を認定し、その行使(刑)を代行するというものが法治主義なのではないかと思っています。ゆえに、罪の認定にあたっては、最大限客観的事実に基づかなければならず、事実認定を見誤りうる自白の強要は回避されるべきであり、事実は見方によって必ずしも真実たりえないので、一元的視点での事実認定を回避するために検察と弁護士双方の存在があるのだと思っています。被告の人権が過度に守られているとする意見をよく耳にしますが、罪の認定にあたっては最大限客観的事実に基づかなければならないことをふまえれば、至極当然だと私には思えます。メディアなどで、こんな被告は問答無用で死刑だという人は、罪の認定の基礎となる事実をどれだけ2元的に検討しているのでしょうか。

 一方、加害者の人権が護られているのに対し、被害者の人権は全く蔑ろにされているという意見があります。被害者自身がそう主張されているのですからその通りなのだと思います。では、被害者の獲得したい権利とはどのようなものなのでしょうか。光市母子殺人事件の被害者の遺族である本村氏は「加害者に死刑を求めること」であると主張していますが、彼は当初から獲得したい権利は「死刑を要求する権利」であると主張していたのでしょうか。私の記憶では、当時、「加害者に直接会って、私の苦しみや怒りをぶちまけたい。お前の行為によってこんなにも苦しんでいる人間がいるんだということを知らしめたい。そして同じ苦しみを彼にも味わってもらいたい」と主張していたと思います。しかし徐々に後半部の「同じ苦しみを味あわせたい」という主張が純化し、最終的に「死刑を求めたい」という主張に変化しているように思われます。ここでもう一度検証しなければいけないのは、被害者の最初に抱いた純粋な感情は、「被害者の悲しみや苦しみを受け止めよ、そして謝れ、そしてお前は何故そのような行為に及んだのかはっきり説明しろ」ということで、被害者との面会や裁判や捜査の進展を知りえない状況に置かれていることに憤り、その感情を満たす権利を要求していたのだということです。政府や司法はこれに対し、柔軟な検討や対応をしたのでしょうか。遺族がグリーフ出来る環境整備を法を含めて検討したのでしょうか。より本質的な要求を黙殺し、極刑を望むという感情の昇華に手を貸し、彼を利用したのではないでしょうか。

 被害感情は加害感情に比べ心の奥に長く沈殿するものですが、とはいえ人間の感情は本質的に時間とともに消化されるものであるため、本村氏も妻や娘の記憶が徐々に風化することに罪悪感を抱いていたように思われます。愛おしい妻子の記憶を護るために、彼は怒りの持続を自分に求めてきたのだと思います。怒りの持続をどこかで解放してあげることが、彼にとってもっとも重要なケアだったのではないでしょうか。しかし、メディアや世論は彼に怒りの持続を求め続けました。仮に望みどおりに被告に死刑が執行されたとして、その後の彼に去来する感情はいったいどのような感情なのでしょうか。一時的な達成感は得られても虚無感に苛まれることはないのでしょうか。後に自分が死刑を求めたことの意味を振り返ったとき、利用されていたのではないかという疑問を抱いたとき、彼の心に湧き上がる感情を思うと、まだ若いだけにとてもいたたまれなくなります。私はそういう意味において、本村氏が不憫でなりません。

 人が人を殺めることは本当に罪深いことです。そこに存在する「愛」を暴力的に切り裂くことだからです。唯一無二の存在を奪った罪を償うこととは、唯一無二の存在を尊しとする「愛」を自覚することなのではないでしょうか。「愛」は己の存在の尊さを保証するものではありません。「愛」は他者の存在を全肯定する行為なのです。ゆえに、自らの死をもって「唯一無二の存在の尊さ」を自覚させることは出来ないのです。だから、たとえどんなに凶悪犯であったとしても、「死刑」という名の下、国家的に無機質に人を殺すことは許されないのだと私は思います。そして「愛=いてくれるだけでありがとう」を自覚させる「刑」のあり方が、法治主義において問われているのではないかと思います。
[PR]
by pantherH | 2006-04-21 23:15 | 社会

リディキュール

毎週金曜日はUnder the Sun-HOME-でコラムを書いているので、そちらも覗いてくださいね。

 先週の土曜日の夕方何気なくラジオを付けると、業界人の得意気な裏話に聞き耳を立てる東京FMの「サタデー・なんたら・バー」にあのセコーが出ていた。スポンサーは、荒川静香とトゥーランドットにご招待のサントリー。何を言うやらと聞き耳を立てる。

取巻き「セコーさんは自民党の選挙指南役でらっしゃるんですよね。この間の選挙はセコーさんの手腕が大だと言われてますけど、小泉チルドレンを勝たすのには何か秘訣があったんですか?」

セコー「聞きたい?彼ら選挙、初めてじゃない。演説の仕方も知らないし、街頭出たり挨拶回りで忙しいから、新聞読んだり政策の勉強なんかしてる暇ない訳よ。そこで、僕が今日の演説のポイントを書いた紙を一枚だけ、彼らに毎朝FAXしたの。みんなそれをトイレ休憩の間なんかに見て、演説をバシッと決めるってわけ。」

取巻き「さぞかし小泉チルドレンの議員さんはセコーさんに感謝したでしょう?」

セコー「多くの小泉チルドレンは派閥に属していないから、今でも僕のところにどうしたらいいですか?って彼らいっぱい聞きに来るんですよ。」

取巻き「自民党セコー派ですね。」

セコー「いやいや、滅相もありませんよ。でも、彼らにアドバイスするんです。毎朝8時からやっている自民党のミーティングに可能な限り出て、そこで必ず一つ気の利いた意見を言うようにしなさいと。下らないことはバッドね。なかなか切れる奴だと思われたら、一緒にもう少し詳しく勉強しないかって先輩方からインナーの会に誘われるからって。そこでの議論はダイレクトに政策に反映されますからね。」

取巻き「へー、面白い。実際の政治ってそうなってんだー。で、みんなどうなんですか。出席の方は?」

セコー「みんな言うこと良く守って頑張って出席してますよ。勉強も良くしていて感心です。それから、今回の選挙で中央と地方で組織にねじれ現象が生じたでしょ。新人たちに言ってんの。中央のトップの口添えを期待するんじゃなくて、そういう人たちと膝をほっつき合わして酒を酌み交わしなさいと。」


すごいなー、こんなところにもイメージ戦略仕掛けてきてんだもんなー。
すごいなー、紙切れ一枚で政治が語れちゃうんだもんなー。
すごいなー、いかにも実力主義っぽくて、会社の会議室みたい。
すごいなー、自民党が世界だーって感じありありだもんなー。
僕らも日々上司から言われてるもんなー。会議では気の利いた意見を言いなさい、みんな密かに評価してるよって。人と人とのコミュニケーションが大切だよって。

すごいなーって騙されちゃいそうだけど、会社と政治が同じ組織の論理でいいのか?こんなのその実サロン政治じゃないか。インナーの会?なにそれ。お呼びがかかる?従順なこった。議員になったんなら呼ばれなくても行けよ。ましてや市民なんて目にも入らない。はあ、民主党の議員もお呼ばれされたいと思ってるんだろうな、そのインナーの会とやらに。それとも、既にお呼ばれされている?

ワイドショーとインナーミーティングで語られ、決まる政治。
おー、リディキュール
[PR]
by pantherH | 2006-04-06 23:57 | 社会

人の死

 富山県射水市民病院で医師がターミナルの患者の人工呼吸器を外すという事件が起きました。この事件には、まだ生きている患者の生命維持装置を外すのは「殺人」である。いや、回復する見込みのない患者に苦痛を強いる生命維持装置を外すのは「尊厳死」である。といった、人の「死」をどのように捉えるかという問題が深層にあります。「死」に関する議論は臓器移植を可能にしようというなかで、「脳死は人の死か」という問題で議論されました。記憶が曖昧なので、その時の論点を整理することは出来ませんが、結局のところ、「脳死を人の死と認めなくては臓器移植に道を開けない」という結論ありきの議論に終始し、人の死に「点としての死」という印象を植え付け、死を「手続き上の問題」にしてしまったのでした。
 
 「脳死を人の死」とするには、先ず、生前に本人が臓器提供をする意志を有している。すなわち、「脳死」と思われるような状況に陥ったときに、自分の死を「脳死判定基準」に即して定義しても構わないという意志を有していることが前提になります。そして家族による本人の意志の尊重と、生命維持装置によりまだ心臓が拍動している時に生命維持装置を外すことに同意していることが前提になります。その上で、「脳死判定基準」に即して患者が「脳死」であると診断して、生命維持装置を外すことが可能になります。そして大前提として、 自らの臓器を臓器移植に提供する意志がある時のみに適応されるのです。

 このように法的に「脳死を人の死」であると定義するには、様々な基準をクリアしなくてはならず、適応には厳密さを期すべきことは言うまでもありません。しかし法的に死を定義するということは、死を「点」で評価するということにほかなりません。ところが、実際の「死」は「連続性」の中に存在します。現在話題に上っている「尊厳死」はまさに「連続性の中に存在する死」として「死」を捉えて初めて意味をなすものなのです。

 尊厳死協会によると、尊厳死とは患者が「不治かつ末期」になったとき、自分の意思で延命治療をやめてもらい安らかに、人間らしい死をとげること。それを叶えるためには、尊厳死を望む意志(リビング・ウィル)を ・不治かつ末期になった場合、無意味な延命措置を拒否する。・苦痛を最大限に和らげる治療をしてほしい。・植物状態に陥った場合、生命維持措置をとりやめてください。という意志を医療者に提示することが大切であると述べています。

 例えば、急性心筋梗塞による急性心不全を来した際、人工呼吸器管理することは珍しくありません。治療が奏効して人工呼吸器から離脱出来る場合はいいのですが、中には心不全が改善せず長期にわたり人工呼吸器から離脱出来ず肺炎を併発して亡くなる方がいます。この場合どこに延命治療と尊厳死の線を引いたらいいのでしょうか。
 例えば、白血病の患者さんは周期的に抗がん剤を投与して再発予防を行います。感染予防に努めても、治療中に肺炎や敗血症といった致命的な感染症に見舞われることがあります。一時的に人工呼吸器の助けを借りて感染症をコントロール出来たら、再発さえなければまたもとの生活を送ることが可能になります。しかし、治療が奏効せずに感染症に負けてしまうこともしばしばあります。この場合もどこに延命治療と尊厳死の線が引けるのでしょうか。
 例えば、癌が再発した患者さん。確かに再発により治療が難しくなります。抗がん剤によりもう一度完治を目指そうとすると、抗がん剤の副作用で予後や生活の質が著しく損なわれることもあります。しかし癌の勢いを殺ぐ目的で抗がん剤を用いることもあり、これは患者の生活の質を高めたり、安堵感に繋がったりすることがあります。また、多くの患者は抗がん剤治療を望まれることが殆どなのです。終末期の患者は疼痛以外にも精神的にも肉体的にも様々な症状を呈します。急変することも珍しくありません。急変は癌の進行そのものによるものなのか、感染症などの癌以外の病態を考える必要があるかもしれません。急変時にどのような対応をするべきなのか、その時の状況により難しい判断を医療者だけでなく患者や家族も迫られます。

 どこからが不治で、どこからが末期で、何が延命治療で何が尊厳死なのか、患者の見識、医療者の見識、その時の病態、患者や家族と医療者が培ってきた関係性など様々な要素によりそれらは個々の事例毎に違い、同一の事例であっても局面毎に変化するものなのです。

 確かに今回の事件は法的には手続きに瑕疵があったと思います。しかし、この連続性の中に死を捉えると、どこに「手続きとしての死」を介入させていいのかという非常にデリケートな問題もはらんでいます。この一件から私たちは、「死」を忌み嫌うものとして遠ざけず、誰もが避けることの出来ない問題として、容易には「生と死」の線を引くことが出来ないというリアリティーを持って、「死」についてもっと多くを考えなくてはいけないのだと思います。
[PR]
by pantherH | 2006-03-31 01:00 | 社会