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愚樵さんのエントリーから感じたこと

 愚樵さんの一連の興味深いエントリー ”情”が分離された時代”右”か”左”かなどを読み、何度かコメントをしようと試みたのですが、残念ながら僕自身言葉にすることが出来ませんでした。全く頭の中は混乱し支離滅裂なのですが、言語化しないと一生スルーしそうな気もするので、その中で感じたことをエントリーします(すみません)。

 「知」とは要素還元論的(分析的)手法により詳らかにされた事象の総体であり、言語、脳、微分(時間の)がその代表だと考えます。一方、「情」は・・・。僕はこの「情」についてことばで表そうと思った瞬間に、ことばを失ってしまうのです。でも、おそらく「情」は、表そうと思った瞬間に「ことば」では表現出来ないという性質をその本質に宿しているのではないでしょうか。
 僕も「表現」の持つ「一人歩き」に苦心している時にこのことについて考えていました。

 鈴木大拙の著作を何冊か読んだのですが、禅的世界感を表現する「知」(ことば)と、ことばでは表現し得ない「情」を表す為に、メタファとしての「作法」(形式)が記述されているように思われました。「禅」については全くの素人なのですが、「禅」とは「知(言語化)」と「情(作法=身体化)」を行き来(トランスミット)する技法なのではないか、と感じました。その点で僕にはしっくり来るものがありました。
 しかし、「身体化」を声高に叫ぶことは同時に、後に形式化・権威化していった「禅」の歴史と、権力に非常にコミットし易いという危うさも孕んでもいる点で、悶々とした葛藤を覚えてしまいます。おそらくこのプロセスが愚樵さんのおっしゃる「知」の虚構の上に築いた「情」の暴走とリンクしてくるのだろうと思いました。
 その際に「知の限界」なのか「知の劣化」なのかという命題が浮かび上がって来るように思いました。極度に形式化していった「禅」においては言語化をサボったという意味に於いて「知の劣化」があったように思えてなりません。一方、「近代」は「知の限界」と「知の劣化」の双方を抱え込んいるように思われます。すなわち、科学が発達する以前から認識されていた「知の限界という『知』」に対し、「科学」という魔法によって突破出来るという認識が幻想であることを突き付けられてもなお、その幻想を抱き続けているという『劣化』です。あるいは、「知(言語化)」そのものの放棄。アカデミズムは前者のコンテクストとして知の劣化を潜在的に内在していますし、また後者のコンテクストとしての知の劣化をこの社会は醸成しています。愚樵さんのおっしゃる「知・意の暴走」とは、「知の限界という知(無知の知?)」を享受しない「意」の暴走ということなのでしょうか。
 
 愚樵さんは「知・意」と並列で表記していらっしゃいますが、はたして「知」と「意」は同次元のものなのでだろうかという疑問を抱きました。「意」とは、良く言えば「知」と「情」をシャトルするトランスミッター(僕は「意」をこのように解釈して分離しつつある「知」と「情」を繋げられないかと密かに考えているのですが)、悪く言えば「意」などというものは曖昧模糊としていて全く実態がないものなのではないかと感じています。一方で、変化こそが生命の本質であると据えた場合、人間においてはその曖昧模糊さゆえに、「意」こそがその本質であると捉えることが出来るのではないかと思います。しかし、近代は「意」を「情」から「知」あるいは「知」から「知」へのone wayのトランスミット(伝達)としてしか捉えることをしなかったのではないかと感じます。それは「ことば」の「知」へコミットメントが非常に強いからだと思います。
 しかし本来「意」とは「知」と「情」をシャトルする双方向のベクトルを持ったものなのではないのかと思います。情から知(知から知)へのトランスミットは分析的で、その時間の捉え方は微分的。一方、知から情へは包括的で、その時間の捉え方は積分的。前者は分かり易いけれども、後者は捉えがたい。前者は速攻で伝達するけれども、後者はなかなか伝達しない。そして時間軸がどんどん短くなって来ている今日、後者は更に捉えがたく、伝達しがたくなっています。しかし、禅のいうところの「極意」、あるいは鶴見和子の言うところの「内発的発展」というのは、「意」の双方向性に対する目覚めを喚起しているのではないかと思うのです。そして両者に共通するのは「実践」することから、「身体」と「言語」の双方向フィードバックの関係が生まれるという示唆なのだと思います。
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by pantherH | 2007-08-14 02:30