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逡巡

Undre the Sunに書いたコラムを転載します。お題は、「こだわり」。

 振返ると僕は、『時間』や『ことば』にこだわっているようです。
 時間にしてもことばにしても、「斬る時間」「斬ることば」と「醸す時間」「醸すことば」があって、どっちが大切っていうものではなくって、どっちも大切なんだけど、時間もことばも斬りっぱなしだと、結局のところ関係も存在も切断されてしまう、金銭至上主義に帰着しちゃうんじゃないか、なんて漠然と感じています。一方で、醸すことばって結局想像力の事を指すと思うし、醸す時間って個々人のプライベートなことの集積だから、「想像力を働かせろ」とか「醸せ、醸せ」と声高に言うのは短絡の極みだと思ったりします。『国家の品格』なんかは、それを声高に叫んじゃったりして、逡巡の欠落というか、その短絡というのを恥ずかし気もなくやっちゃっている。読んでてアホだなーと思う。ただ、「醸す時間」とか「醸すことば」を「ことば」で表そうと思ったら、そういう罠にはまり易いというのも事実なんじゃないかなとも思う。あまり良く知らないけれど、宮沢賢治しかり、島崎藤村しかり。特に、「国家」って奴を扱うと、とたんにその罠にはまっちゃうんだと思う。だから、「国家」という文脈では語ってはならないという慎みが必要なんだと思う。
 

『逡巡』

哲学者がするように「時間とは何か」と問うことは僕の能力を超えている。
「時間を認識できるか」と問えば、「さあ分からん」。
「時間を実感出来るか」と問われたら、「はい」と答える。
では、いったいどんな時に時間を実感出来るのか?

分からなかったことが、なるほどと分かったとき、
全く無関係だと思っていたAとBが繋がったとき、
僕は自分の中を伏流していた「時間」を感じる。
試験直前最後の追込み、
締切り間近の仕事を山のように抱えているとき、
僕は自分の横を通り過ぎる「時間」を感じる。

灼熱の日ざしが和らぎ影の長くなるのに、僕は「時間」を感じているだろうか?
いつも決まって真っ赤な花を咲かせる曼珠沙華に、僕は「時間」を感じているだろうか?
子どもの成長に、両親の老いに、ぼくは「時間」を感じているだろうか?
僕は「変化」の後ろにいる「時間」を感じているだろうか?

会うことのなかったおじいちゃんとそのまたおじいちゃんに、僕は「時間」を感じているだろうか?
会うことのない百年後の子どもたちに、僕は時間を感じているだろうか?
僕は「過去」と「未来」を繋ぐ「今」に時間を感じているだろうか?

変化の後ろにいる時間。
自分の中を伏流する時間。
横を通り過ぎる時間。
過去と未来を繋ぐ時間。
お釈迦様はきっと、この「4つの時間」を悟られたのだろう。


アイザック・ニュートンは、変化の後ろに存在する時間に目を凝らし、限りなく時間をゼロにすることで「微分(=differentiation)」を発見した。そして微分に再び「時間」という魂を入れることで「積分(=integration)」を発見した。そして、松尾芭蕉は、切り取った瞬間に永遠を想起させ、微分と積分を俳句に詠み込んだ。

Differentiationとは分化、差異化すること。そのお陰で僕らは変化を分析し、過去と過去を繋いで、未来を予測出来る(かも知れない)。しかし、differentiationの行き着く先は「差別すること」。
Integrationとは統合、融合すること。そのお陰で僕らは思いがけずAとBの連関に気づき時間を実感する。そして、integrationの行き着く先は「平等になること」。
ところが、違い(=different)の否定は、無関心(=indifferent)。
まさに言語化の放棄。関係性の放棄。ゆえに双方に楔のように突き刺さる。

だから、僕らは「微分」と「積分」の間で、「時間」という魂を抱えて、逡巡しながら歩むほかない。


アルバート・アインシュタインは、速度と時間に目を凝らし、限りなく速度を高めると時間が止まることを発見した。僕らは時間を止めたくて、必死に生きる速度を高めようとしている。僕らは時間を掴みたくて、ちょっと先の未来に線を引き、そこまでダッシュを繰り返す。哀しい哉人生は、光速には近づけない。そして「今」はいつも僕らの耳を掠め過ていく。

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは、歴史に目を凝らし、過去に目を閉ざすものは、現在に盲目になると言った。少しでも「今」という時間を知りたくて、人は歴史を知ろうとする。「過去」を知り、朧に「今」が映される。「過去」を知り、人は己の一回性を知る。有限と知ることで、人は己の永遠性を知る。
なのに僕らは、「今」を知りたくて、時間を切り刻む。「時間」を感じたくて、時間を切り刻む。哀しい哉、時間を切り刻む程に自らを切り刻む。
そして僕らは歴史を知らなくて、己の有限性に懊悩し、カルトに心を蝕まれる。

親鸞上人は、一回性と永遠性に目を凝らし、弥陀の本願ゆえ念ずれば煩悩具足の我らでも成仏出来ると唱えた。時空間的彼方に「絶対」を描いて、万物を相対化し、有限と無限を繋ぎあわせた。

ルドルフ・シェーンハイマーは、合成と分解に目を凝らし、常に分子を入れ替えながら自己同一性を保つ、生命の動的平衡を発見した。「生命」とは、「無限」の時空間的凝縮により際立つ「存在」。

悠久の「過去」、永遠の「未来」、そして無限の「空間」を、有限の僕らが繋いでいる。
時間は存在であり、存在は時間だ。

少し先の未来に死をみると、人は初めて「今」を知る。
おじいちゃんのそのまたおじいちゃんより遥か昔から脈々と流れる川の水面に、ぴょんと飛び跳ねた魚の如き自分。
でも、僕らはそこに、one make決めたいんだ。

そうだ! 
僕らは「無限」と「無限」の間で、「存在」という魂を抱えて、逡巡しながら歩むほかない。
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by pantherH | 2007-10-06 21:47 | Under the Sun