飼鶏

 気位の高い鶏の産んだ黄金の卵の味が忘れられず、翌年、まだあどけない鶏を一度に五羽飼う事になりました。名前はどれもコッコと名付けました。先代のコッコが泊まった白樺の枝に、一度に五羽も泊まれるはずもありません。かといって、それぞれがお気に入りの木の枝を見つけてねぐらにするような習性も持ち合わしていないようです。先代のコッコが使っていた手狭な鶏小屋に、夜になると五羽仲良く寄り添って羽を休めています。

 街までトタンや金網、角材を買いに出掛け、父親と鶏小屋の新設作業に取りかかります。裏山に生えた若木を鋸でギコギコ切り倒し、鉈で枝をはらい、鎌で皮を剥いて止まり木を作ります。夏の間は小屋の扉を開放し、庭のミミズをついばむようにしておきましたが、私たちが餌を運んでくることを知ると、庭に出ていく度に近寄って餌をねだるようになりました。一度小屋で飼いはじめると、鶏たちは毎日私たちの運んでくる餌を当てにして、餌を求めて冒険するような事はなくなってしまいました。

 卵を産むとコケコッコーと雄叫びを上げてしまう可愛らしさは相変わらずです。林のあちらこちらから、五羽が輪唱するかのように雄叫びを上げる光景はとても賑やかです。さながら、私たち卵探索隊を幻惑させようと五羽が共同して鬼さんこちらと誘っているかのようです。しかし、黄金の卵の輝きも心なしか色あせて見えます。今思い返すと、裏山に植林された落葉松林は、先代のコッコの時代にはまだ背も低く、下草が豊富に生い茂っていました。ところが、年々落葉松は成長し、それとともに下草が姿を消してしまい、餌になるミミズが少なくなっていたのかもしれません。当時はそんな事には思いも及ばず、「怠け者のこいつ等め」と、罵っていたものでした。

 凍てつく冬が近づくと、鶏小屋に厚い透明なビニールを巻く作業を行います。真冬になると土はカチコチに凍ってしまうため、秋のうちに干し草を作り床に敷きます。木箱を入れて、少しでも地面から離してあげられるように工夫を凝らします。洗面器に入れた水はすぐに凍ってしまうため、朝晩水の交換と残飯と配合飼料を混ぜた餌を与えに鶏小屋に向かいます。扉を開けて餌箱に餌を広げると、鶏は一斉に餌を突つきはじめます。しかし、一羽だけ餌をついばもうにも、他の鶏に突つかれて餌箱からはじき出されてしまう鶏がいます。「こら、メンメっ」と、他の鶏を叱り、その鶏にも餌を与えようと試みますが、彼女らはおかまいなしに餌箱から一羽の鶏を排除します。それは寝る時も同じです。一羽だけ隅っこでぽつんとしょんぼり返って眠っているのです。次第に体力を失い、その鶏はとうとう衰弱死してしまったのでした。

 生存競争に打ち勝った四羽の鶏でしたが、間もなく一羽の鶏を仲間はずれにし始めました。前回の教訓からその鶏を別の小屋に避難させましたが、残りの三羽がまた一羽を仲間はずれにし始めます。もう鶏が恐ろしくて恐ろしくて、餌や水替えに行くのが苦痛で苦痛で仕がありませんでした。結局、ひと冬で二羽減り、三年経ってとうとう鶏は一羽になってしまいました。生存競争を勝ち抜いた前科者の鶏は、コーコーコーコと可愛い声を鳴らしながら、人間の後について歩くようになりました。逞しく土を掘り起こし、ミミズをついばむようにもなりましたが、先代の気位の高いコッコに感じた尊敬の念をとうとう抱く事は出来ませんでした。

 私は、理性の大切さと、飼育し囲う事の罪深さを感じたのでした。そして、「人間もまた自然の一部である」ということと、「人間は人間である」ということを鶏は教えてくれたのでした。
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# by pantherH | 2006-02-10 20:12 | エッセイ

「偽善」が小泉的気分の応援団

 伝えなきゃいけないニュースは山ほどある。取り上げなきゃいけない問題は他に腐るほどある。なのに、落ちた偶像をみんなで取り囲んで叩く事に終始しているメディアに改めて辟易としする。同じように、支離滅裂・不誠実小泉や、しどろもどろ安倍、ちんぴらW中川や、ぼんくら麻生を叩かんか。天下り先調査団の官僚や、癒着でがっぽり業者のトップを叩かんか。

 朝日新聞の、星浩は今更ながらに、「気まぐれ改革」だったのか、なんて小泉政権に批判的な記事を書いても、後だしじゃんけんなんだな。風見鶏の卑怯者なんだよ。正義というのは言うべきときに言うのが正義でしょ。今更言ってもねー。大手マスメディアの報道をしない自由のもと犯した世論誘導の罪は免れないよね。インターネットで知ってんだもん、君らの不正義。ジャーナリズム復活宣言するなら、踊り、踊らせた(踊らされたなんて言ったら怒るで)自分たちの非を先ず認めるこった。普段から疑って読む癖がついてる自分だけど、メディアへの信頼取り戻すのはかなり大変だ。

 だいたい、東横インの社長をメディアは、障害者用の部屋改造した事に対する法的・倫理的責任を追求してるけど、障害者自立支援法を殆ど取り上げず、意図的に問題をカムフラージュしたメディアの責任はどうなの。障害者の人権を侵害してないかい?
 無断で障害者用の部屋を改造したのは、これまでの障害者福祉に対し冒涜で遺憾だと言う行政の人は、窓口でヘルパー代は利用者の自己負担になります、と言ってる事と矛盾してないかい?
 障害者の部屋削ってまで利益優先とは浅ましい、と言っている人は、障害者自立支援法の事なんて考えた事ありますかい?
 みんな障害者になんかちっとも関心なんかないくせに。

 あー、やだやだこの偽善。

 子どもたちは、大人のこういう偽善やいじめを見抜いてるんだな。みんなちっとも関心ないくせに、ってね。だから、いいんだよ、そんなところに金かけなくっても、そんな事まで税金でやらなくったって、っていう、小泉的なものが支持されるんでしょ。
 こういった類いの偽善が小泉的な気分を猛烈にバックアップしてるって思うんだけどw。

 という私のブログも、かなり偽善的だと思われているだろうけど・・・。
 
 今日は素楽さん風を真似てみたけど、全然いけませんね。すみません。
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# by pantherH | 2006-02-08 02:42 | 社会

「イラクニ接近ス」を宣伝します

  安田純平さんのメーリングリストから、イラク滞在中に同じホテルで過ごした友人、谷澤壮一郎さんが2004年にイラクに滞在して出会ったイラクの人々の記録をドキュメンタリーにまとめた「イラクニ接近ス」が、近日、東京渋谷で公開されるので、是非宣伝して下さいとのメールを頂きました。
 安田純平さんの、谷澤さんの上映会の紹介文は、こちら

 期日は
2月20日(月)-2月24日(金) (16:00- / 18:00-)
2月25日(土)-3月3日(金)  (14:00-)
3月4日(土)以降  (13:30-)
 場所は
東京 渋谷・UPLINK X

 上映期間中、多彩なゲストと谷澤監督とのトークイベントも開催予定です。

 谷澤壮一郎(タニザワ・ソウイチロウ)監督は、滋賀県大津市出身で、現在、宇都宮大学国際学部4回生です。イラク戦争前後に3度イラクへ入り、ドキュメンタリー映像を制作。「イラクニ接近ス」は、「IRAQI Who I Met」に続く2作目の作品で、自身のHPで一部映像を見る事が出来ます。

 東京新聞(栃木版)に「イラク普通人」に関するコラムを連載(計14回)しています。マスメディアなどが伝える、抗議や破壊ばかりしているイラク人ではなく、イラクのごくごくvery ordinaryな peopleに会いに出掛け、自分が見た、自分が出会ったイラクやイラク人はどんなだったかという、自分の視点にこだわったルポを書いています。

 2004年9月よりインドネシアに留学し、12月末以降スマトラ沖大地震・大津波の取材を行い、現在、アチェ紛争避難民とツナミ、和平の問題にテーマを絞り、映像制作集団DNAと共にドキュメンタリー制作に携わっています。

 どうかお誘い合わせの上、劇場へと足をお運び下さいますよう、よろしくお願い致します 。

 
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# by pantherH | 2006-02-07 00:33 | Under the Sun

Under the Sun リニューアル

 トラックバックセンター、Under the Sunが Under the Sun-HOMEUnder the Sun-TBCUnder the Sun-EQTの三本の柱を立てて、リニューアルしました。また、Under the Sun-TBCには、時事問題を扱ったUnder the Sun-TBC時事を設け、関心を喚起していこうと思っています。旧TBCをご愛顧くださった方々に改めて感謝申し上げます。TBCについてはカテゴリーの設け方、デザインや利便性など、助走期間の反省をふまえて更に改良を加えていきたいと思います。

 ブログを始めて半年が経ち、ブログを通じて同じような疑問や考えを抱いている人々と出会うことが出来ました。また、トラックバックセンター「Under the Sun」を立ち上げることもできましたが、更にトラックバックやアクセスを集め、面白いことをやっているなと思ってもらえるようにはどうしたらいいかなと考えていました。

 みんな一生懸命に声を上げているんだけれど、外に向かって届いているだろうか。一時的に注目を集められても、続けて色々なことをしていかないと、なかなか発展しないのではないか。自分は生活のすべてをUnder the Sunにかけることが出来るのか、うーんそれは難しい。自分はやれることはやったという免罪符を得ればいいのか。いや、少しでも何らかのきっかけやパワーに貢献したい。
 毎日のニュースに憂鬱になり、怒りを通り越しげんなりしてしまうことばかりだし、自分の葛藤にも負けてしまいそうにもなるけれど、そんな思いや負担をみんなで少しずつシェアしあえれば、勇気やパワーそして効果を上げていけるんじゃないかなと思ってます。

 これからは今までの出会いを通じて、少しずつ外に広がっていけるように、Under the Sunを展開していきたいなと思っています。イベントやプロジェクトのアイディアも頭の中を駆け巡ってはいるのですが、時間や能力が不足気味。
 運営方針では「同志」なんてちょっと堅い表現だったりしてますが、それは僕らはみんなイコールだっていうことを伝えたいから。いつも堅いT.N.君の日記だけれど、それに初めてエントリーで僕って使っちゃったけど、悩みながら、楽しみながら、やってます。

 一緒にやりませんか? Under the Sun.
 今後とも宜しくお願いします。
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# by pantherH | 2006-01-27 00:26 | Under the Sun

ヴェロニカ・ゲリン

 読み朝る毎ブロガー同盟という同盟があります。国民に伝えるべきことを伝えず、小泉改革のまやかしを支えた大手新聞社に、ちゃんと伝えなきゃいけないことを公正に伝えてくれ、というメッセージを伝える同盟です。911選挙以降、テレビも殆ど見なくなり、新聞を読んでいても気分が悪くなるような日々が続きます。そんな折り、DVDで「ヴェロニカ・ゲリン」(ジョエル・シュマッカー監督、ケイト・ブランシェット主演)を見ました。

 物語は、赤いスポーツカーに乗ったヴェロニカ・ゲリン(ケイト・ブランシェット)が射殺されるシーンから始まる。

 子どもたちにも麻薬が蔓延し、麻薬利権を巡るマフィア同士の抗争で毎週のように起こる殺人事件。バイヤー達が白日堂々と麻薬を売りさばき、警察に告発した者は確実に消される。人々は、通りで子どもが注射針で遊んでいるのを見ても、目を背けてただ歩き去るだけの、90年代のアイルランドがこの映画の舞台。

 一児の母でもあり、サンデー・インディペンデント紙の人気記者でもある、ヴェロニカ・ゲリンは、麻薬マフィアの取材を敢行する。徐々に本丸に迫って行くヴェロニカ、それを脅威に感じたマフィアのボスは、ヴェロニカの暗殺を試みる。しかし、その暗殺は未遂に終わる。暗殺の恐怖におののきながらも決してひるまず、取材を続け巨悪を告発するヴェロニカ。その様子を他の記者たちは野心家と冷笑する。

 議会もメディアも国民もヴェロニカの告発を片目で捉えながらも、なかなか重い腰を上げようとしない。そして、ヴェロニカが巨悪の心臓部に手をかけたその時に、彼女はマフィアによって暗殺されてしまう。ヴェロニカの凄惨な死を目の当たりにして、漸く国民も議会もメディアも声を上げはじめる。

 実在の人物、ヴェロニカ・ゲリンの物語は、今の日本の状況に多くのメッセージを投じています。不正に果敢に立ち向かう勇気と恐怖、勇気ある告発を支える家族や友人の親愛。ジャーナリストが恐怖に克ち伝える動機を支えるのも、私たち国民の支持や行動であり、また、ジャーナリストに限らず、私たちが身近で遭遇する不正にノーと言う勇気、それを支えるのも身近な人々との連帯なのだということを感じずにはいられません。

 偽装マンション事件で一人消され、ライブドア事件でまた一人。石井紘基衆議院議員暗殺など、巨悪を知ったもの、巨悪に肉迫した者は消され、暴力的手法によりジャーナリスト達の口は封じ込められている。身近な不正に対する糾弾もリストラという恐怖でその芽を摘まれている。勇気ある告発を促すのも支えるのもまた私たち自身であることを認識させられます。
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# by pantherH | 2006-01-22 23:51 | 映画

やれやれ(2)

 とりあえずさんが反小泉ブロガー同盟主催、「輝け、小泉名言大賞」(企画案)なる、楽しげで、かつ小泉政治の本質を鋭くえぐるナイスな企画を提案されました。記事を読みながら、私にもエントリーの資格があるのだろうかと読み返しながら、うーん「小泉語録かー」なんかいいのなかったかなーと、思案を巡らしておりました。
 
 そんな矢先の出来事に、またしても、やれやれpart2 です。

 例の件で、同盟を去った私ですが、その後繰り返される愚行の度に、腑が煮えくり返る思いでおります。当時、多くの野次馬が例の経緯に興味津々で、普段30にも満たなかったブログのアクセスが300にも跳ね上がる状況下で、批判めいた記事をエントリーするのは、反小泉ブロガー同盟にとっても私自身を守る為にも得策ではないと思われたので、沈黙を守ることにしました。今でもその件に関しては一切を明かすつもりはありませんが、その後も同様の事が繰り返されるに及び、当時沈黙したことが、ここまで根を深くしてしまったのではないかと思わずにはいられません。

 911選挙以降、危機感を募らせてブログを始めた人々の、柔軟で前向きな行動をつぶすような行為は、断じてしてはいけないことなのです。

 発起人が昔、楽しく読んだという「バナナと日本人」の著者、鶴見良行さんの対話集「歩きながら考える」で、鶴見さんは、アジア各国を旅する時、現地の人々の住む街や村へ赴き、現地の人と同じ生活をし、現地の言葉を覚え、現地の通貨で買い物をすることをモットーにしたとおっしゃっています。

 昔、旅人は「文化の伝播」の重要な担い手でした。今のようにお金や食料を持ち、容易に移動が可能な時代とは違う昔の旅人は、その日の食料や軒を借りるのに、旅先で出会う人々の世話になる必要がありました。受け入れてもらうべく旅人は、郷の人の話に耳を傾け、郷の人の生活や習慣を尊重し、時には人々の仕事を手伝って、その日の糧を得るのでした。そうすることで村人も外の世界を知ることが出来たのではないでしょうか。

 私たちブロガーのしようとしていることは、いにしえの旅人と似ているように思います。たとえネットという世界であったとしても、「この新自由主義をなんとか止めたい」という思いは、一足飛びに伝播するものではないのです(逆はやられてしまいましたが)。それぞれが、様々なアイディアで各地に旅立ち、友好的な対話を繰り返すことで、少しずつ理解者を増やすことが大切なのではないでしょうか。

 オセロゲームでは、最初から大きくひっくり返そうとすると最後は必ず負けます。はじめはコツコツとその端からひっくり返すことが勝負の鍵です。ブログにより、全国を股にかけた大きなオセロ盤が出来たと思うのは錯覚に過ぎません。小さなオセロ盤が全国に沢山出来たのです。その端をコツコツ返しつつ、新たなオセロ盤が出来るように、しなやかに、したたかにやっていくのです。

 発揮人さん、どうもあなたは小さなオセロ盤の端をコツコツ返すのは不得手そうです。大きなオセロ盤を返そうだなどという幻想も捨て、小さなオセロ盤を全国に作ることに専念しはったらいかがでしょうか。

 

 
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# by pantherH | 2006-01-17 02:34

講演会のお知らせ

 本日は、はじめの一歩さんを見習って、今週、大阪で開催される気になる講演会のお知らせです。

1) 1月19日(木) 午後7:30〜
     「小泉改革のウソと日本の再生」 (特別講演)
     ベンジャミン・フルフォード (ノンフィクション作家/元「フォーブス」アジア太平洋支局長)
          
 最近話題の「小泉純一郎と日本の病理」(藤原肇著)を出版している、光文社ペーパーバックスより、「日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日」「ヤクザ・リセッション」「泥棒国家日本」 などを著わし、「政・官・業・ヤクザ」による支配がこの国の病理だ、と鋭く追求している方の講演です。
     場所:大阪市北区民センター  ☎06-6315-1500 (JR環状線 天満駅、地下鉄堺筋線、扇町駅すぐ)
     主催:消費税廃止大阪連絡会

 どんな話をするのか非常に興味あるところです。

2) 1月22日(日) 午後5:30〜7:30
     「姜尚中×辻元清美トークセッション」

 言わずと知れた繊細な姜尚中と、痛快なトークはピカイチの辻元清美が繰り広げるトークセッション。これは聞かずにはおれません。
     場所:大阪府、高槻現代劇場3階レセプションルーム(阪急高槻市駅)
     費用:800円
     主催:トークセッション実行委員 ☎072-674-0160

 しかし、しかし、残念ながら先約があり、いずれも私は聞きにいくことが出来ません。そういう訳で、興味を持たれた方、是非、参加下さい。もし、よろしければご報告なぞを・・・(ペコ)。
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# by pantherH | 2006-01-17 00:22

dependence「依存」とindependence「自立」

 玄耕庵日乗さんが、毎日新聞に掲載された「縱並び社会」を転載しています。今の社会と、そこから浮かび上がる10年後の社会が強く暗示されており、必読のルポと思われます。そのルポを読んで、「自立」ということばについて、考えたことを少し書きたいと思います。

 私は予てから、「個の自立」「自立した精神」という具合に、「自立」ということばを好んで使ってきました。昨年も、障害者自立支援法案なる悪法にもこの「自立」という言葉が用いられ、「自立」ということばに、人を突き放す冷たいニュアンスが生じるようになりました。この「自立」という言葉の由来は全く分かりませんが、independenceに相当する単語に「自立・独立」という訳を与えたのでしょうか。あるいは、autonomy (auto「自己」-nomous「管理」)という言葉から「自立・自治・自律」という訳をあてはめたのでしょうか。
 
 当初私は、independenceという言葉は、なぜdependence「依存」という言葉を、inすなわち否定することでしか、「自立」という言葉を定義出来ないのだろうかと、疑問に思うと同時に、言葉がこんな具合だから「個の自立」は益々難しくなるのだと憤慨していたものでした。他のautonomyやself-relianceやself-supportという単語も、どうも「自立」ということばの持つ「自由さ」のイメージに乏しく残念に思っていたのでした。むしろ、self-relianceやself-supportなんていう言葉は、今日の政府が突き付けてくる「自立」という言葉のそれに近くて、とても冷たいニュアンスに溢れています。「自立」ということばは本来的に厳粛な気概を持たないと成り立ち得ないことばなのでしょうか。

 高校時代に、子安美知子さんの「ミュンヘンの中学生」という本を読み、シュタイナー教育というのに興味を持ち、子安さんや高橋巌さんの著作を読んで、私はルドルフ・シュタイナーの人間観に強く惹かれました。昔から悩んだり行き詰まったりすると、自分にyesという為にシュタイナーをちょこちょこと読み直すことがありましたが、最近なんとなくシュタイナーを読み直しはじめ、independenceという概念が、dependenceの連続性に位置づけられることばであることを認識させられました。

 ルドルフ・シュタイナーは、人間は、「物質体」「生命体」「感情体」「自我」の4つの構成成分からなり、それぞれは保護膜によって包まれ、機が熟したときに自ずと膜を破って出てくるものであり、その膜を機が熟する前に無理に破いてしまってはいけないと述べています。誕生は単に「物質体」が羊膜を破って出てきたに過ぎません。その後、親や周囲の環境の保護の下で、四肢が運動を模倣することで「生命体」が活発に活動します。7歳頃になると蛹から蝶にメタモルフォーゼするかの如く萌芽して、新たに記憶という能力が芽生えます。次に、脳の発達に伴い「感情体」が活発に活動します。この時期は、抽象概念を身につけるにはまだ早く、喜・怒・哀・楽といった感情に加え、美といったより高度な感情や、ある感情に付随するアンビバレンスな感情といった微妙な感情を身につけ、14歳頃の思春期に異性に目覚めることで「感情体」が膜を破って外に出てくるのです。「感情体」が発芽すると、抽象的な思考力が活発に働きはじめ、次の「自我」が活発に活動する7年期に突入するのです。この7年期では、これまでに培った、体力や生命力、記憶力や思考力、それから感情を総動員して、人格を形成する過程です。漸く「自我」が臨月を迎え殻を破ると、判断力を身につけた人格が誕生し、「自我」が「独立」するのだそうです。
 
 シュタイナー教育では、特に「感情体」と「自我」が無理矢理外界に晒されないように、初等教育においては極力抽象概念の教育を排し、芸術や踊りや音楽やファンタジーなどの物語を通して感情体験を感じとらせるようにします。また、担任は「自我」が芽生えるまでの8年間を一貫して任されます。その過程で、「絶対的な権威」により保護されていた子どもが、自我が芽生えはじめることにより、権威を「相対化」していくことが可能となります。その為にも、権威であるところの大人は、感情体の萌芽が起こるまでは、絶対的な権威として振る舞い、自我の目覚めとともに、権威の相対化に応じる必要があると述べています。

 このようなシュタイナーの人間観をもとに、改めてdependence「依存」とindependence「自立」ということばを振り返ってみると、cover「覆われ」、protect「護られ」、depend「依存した」状態から、「自我」の確立とともにそれらを破り、外へでた状態を表すことばであることが見えてきます。independenceという状態はdependenceという状態があってこそ成立することが分かります。精神医学的にも、「安全保障感の伴わないところに自立は芽生えない」という言葉があり、「自立」の大切さとともに、dependすることの大切さも教えられます。

 昨今の、「自立」という言葉に付随する冷酷さ、dependすべき安全保障感の欠如によるアイデンティティの喪失、幼児の頃から求められる「自分」という圧力。シュタイナーのような人間観に基づいて、このようなことを見直して見ると、現代人の「人間観」がかなり歪んでいることに気づかされます。
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# by pantherH | 2006-01-13 02:39 | 社会

雪国の苦労

 連休は信州の実家に里帰りしました。例年にない大雪でさぞえらいことになっているものと思われましたが、テレビで放映されている栄村や飯山市とは随分違い、また両親も元気で、少々ほっとしました。それでも、1mほどの積雪と、最高気温が−8℃という寒さには閉口しました。今年は大雪で、除雪や屋根の雪下ろしも大変なのですが、原油の値上がりにより、18ℓ、900円前後だった灯油が1300円あまりに値上がりし、家計に重くのしかかっているようです。

 連日、大雪のニュースで新潟県の津南町の様子が報じられ、雪や雪崩による国道の寸断で孤立化する集落が出始めているとのことです。除雪や雪下ろしをしている人々の映像はどれも自分の父親かそれ以上の方々ばかりで、地方の過疎化、高齢化を痛感します。しかし、テレビに映し出される人々の表情が大変そうだけれども、なにげに明るいのが印象的です。この雪にみんなが助け合っているからなのでしょうか。

 雪国の自治体の除雪費用は既にいっぱいいっぱいだと聞きます。また、屋根の雪下ろしを業者に頼むと、一件あたり3万円から6万円で、背に腹は代えられないため、高齢者などは殆ど言い値でお願いしているところも多いと聞きます。市内だと屋根の雪を捨てる場所がない為、トラックを借りて川まで運ぶ労力も別途必要です。今年は既に数回雪下ろしをしなければならないので、各家庭の負担も相当の額にのぼっているようです。

 最近めっきりテレビを見るのを止めてしまったので、詳しいことは知りませんが、テレビで連日大雪の映像を流しているわりに、それに対する政府の具体的な対応や、いつもの小泉談話でのコメントがなされていないようですね。小泉はこの大雪に何と言うのでしょうか。武部の恫喝により自民党から衆議院議員になった旧山古志村の村長と大蔵をお供に、例の権蔵スタイルで視察にでも出掛けるんでしょうか。あるいは田中真紀子の地盤だから敢えて無視?この大雪も自らのパフォーマンスに利用するのでしょうか。しかし、大規模な倒壊でも起きないと政治は動かないのでしょうか。

 今回の大雪と姉歯事件の問題を比べると、現実問題と想定問題、責任と責任回避、政府の無対応と政府の過剰対応、地域連帯と集団ヒステリーと色々なことが正反対であると感じてしまいます。

 姉歯事件では使用禁止命令を出したとか、それに応じて引越ししたとか言ってましたが、なんで住民はそれに易々と応じるのだろうかと雪国の人は思っているに違いありません。雪に覆われた家の住人に、倒壊の危険があるからとの理由で使用禁止命令を出したとしたら、「だから雪下ろししてんだろ」と、大いに顰蹙を買ってしまうだろうと思います。
 
 内政も外交も、起きるかもしれない事を過大に強調して危機を煽り、集団ヒステリーを起こさせるのではなく、今、現実に起きている諸問題に、誠実に対応することが政府の仕事だと思いますが。
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# by pantherH | 2006-01-11 00:03 | 社会

個性

 正月3ヶ日、ブログも封印し、飲んで、食べて、歌って、温泉に入って楽しく過ごしました。昼間から酒を飲み、昼寝をして、またお酒を飲み、毎晩のように、鱈の寄せ鍋、鴨鍋、鯛鍋と鍋づくしの生活でした。魚の粗や鴨肉の脂身を鍋に加えると、灰汁が沸き上がってくるので、その灰汁をせっせとお玉で掬って取り除きます。しかし、しっかり灰汁を取ろうとすると、美味しい旨味も掬いとってしまい、旨味を醸し出す為には、多少の灰汁は許容するほかありません。

 考えてみると、人はみな、自分を含めて多かれ少なかれ灰汁を持っています。人の纏った灰汁は、人を不快にする悪臭も放てば、なんとも言えない奥行きを感じさせることもあります。灰汁はかっこ良く言えば、個性とも呼ばれています。 「灰汁の強い人」と言えば、ちょっと自己主張が強くて厄介な人と言う印象ですが、「個性」というともう少しニュアンスはポジティブでマイルドな印象になります。個性的な人、個性を伸ばす教育、これは私の個性、などと巷では個性ということばに溢れていますが、個性とは一体なんだろうかと考えると、なかなか難しい。

 人と違っていることが個性である、違っていることではなくてあるがままのそれ自体が個性である、我思う故に我ありと言うくらいだから、考えるということが個性である、考えているだけでは何も伝わらない、その考えに基づき主張することが個性である、などと個性について様々な意見がありそうです。しかし、どれも私にはしっくりきません。

 では、わたしが思うところの「個性」とはいったいなんなのか。
 「個性」とは、相手に自分を認めて欲しいと思う「承認要求」なのではないかと思うのです。あえて人と違っている必要があるわけでもなく、一方的に自己主張をすればいいというものでもない。自分の考えていることや感じていること、したいことなどを、ことばや人柄やその人のあり方や行動や情熱のエネルギーにのせて、相手に伝え、相手に「自分」を「承認」してもらう行為、それが「個性」なのではないかと思うのです。

 個性の反対語として「没個性」ということばを考えると、没個性するところの主体もまた、承認を求めて個の考えや感受性を排し、集団に強く帰属しようとするメンタリティーからも、個性の本質に「承認要求」があるとおもいます。日本人は個性がないとよく言われますが、個性がないのではなく、個性が承認要求であると理解されていないのだと思えてなりません。

 ゆえに「個性」とは「ことば」を越えて、主体のあり方が問われていることばなのだろうと思います。
 
 
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# by pantherH | 2006-01-04 02:15